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渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

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渋沢栄一を歩く

/13 慶喜と平岡円四郎 「即戦力」栄一に期待 /埼玉

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現在の丸紅本社ビル脇に残る「一橋徳川家屋敷跡」の標柱と説明版=東京都千代田区大手町1で2021年3月8日、中山信撮影
現在の丸紅本社ビル脇に残る「一橋徳川家屋敷跡」の標柱と説明版=東京都千代田区大手町1で2021年3月8日、中山信撮影

 渋沢栄一と喜作は、一橋家の用人、平岡円四郎に窮地を救われ、仕官を決めた。

     ◇

 平岡は旗本家の四男に生まれ、水戸藩九代藩主・徳川斉昭の側近で水戸学の大家の藤田東湖らに評価されて一橋慶喜に仕えた。十三代将軍徳川家定の後継を巡り、慶喜を推す一橋派と紀州藩主の徳川慶福を推す井伊直弼らの南紀派が対立した際は慶喜擁立に奔走。結果的に慶福が十四代将軍家茂となり(1858年)、一橋派や尊王攘夷(じょうい)の志士が弾圧された安政の大獄(58~59年)で平岡は左遷された。その後、桜田門外の変(60年)で井伊が暗殺され、慶喜が将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)に就く(62年)と平岡も復帰。事実上の最高実力者の用人となり、家老に昇進した。

 栄一らに仕官を勧めた元治元(64)年当時、平岡は42歳。栄一は自伝「雨夜譚(あまよがたり)」などで「幕吏のうちではずいぶん気象のある人で書生談などがいたって好きであった」「一を聞いて十を知るといふ質」「実に親切な人物」――と平岡の人柄を振り返っている。

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