渋沢栄一を歩く

/7 御用金 封建社会の矛盾を露呈 /長野

  • はてなブックマーク
  • メール
  • 印刷

 前回、16歳の渋沢栄一が岡部陣屋で代官から求められた「御用金(ごようきん)」。一方的に調達承諾を迫られた金銭の性質に着目すると、当時の社会背景が浮かび上がる。

    ◇

 埼玉県深谷市の郷土史家、奥田豊さん(73)は、嘲弄(ちょうろう)された栄一の怒りはもっともだとしつつ「調達に黙って応じた人たちの方が当時としては当たり前だった。代官は『今までは何か言われたことなどなかったのに』と栄一に腹を立てたでしょうね」と苦笑する。「農家だった『中の家(なかんち)』などに対しては当時、畑の作物について現金で納める年貢はあったが、藍玉製造販売に対する営業税のようなものは存在しなかった」と奥田さんは指摘する。「岡部藩は姫の輿入(こしい)れなどにかこつけて不定期に、富裕な名主らに対し、特権商人に対して課していた冥加金などと同じ感覚で、御用金名目で大金を出させていたのではないか」と推測する。

 渋沢史料館(東京都北区西ケ原)の桑原功一副館長(51)も、渋沢栄一に関する膨大な資料を集めた「渋沢栄一伝記資料」の中にも、中の家に関して畑作物への課税資料はあっても藍玉を製造販売した商売に対する課税資料はないと説明する。「血洗島だけではなく全国的にそうなのです。江戸時代にだんだんと民間経済が台頭してくる中で、農家でありながら商売もしている富裕層に税金を課したいという志向が幕府や各藩内で強まる。御…

この記事は有料記事です。

残り1546文字(全文2137文字)

あわせて読みたい

注目の特集