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関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/14 先駆けの鉄筋コンクリート建築=広岩近広

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竹中施工の近代建築にも、京都らしさが評判になった高島屋京都烏丸店 拡大
竹中施工の近代建築にも、京都らしさが評判になった高島屋京都烏丸店

 日本の建築に鉄筋コンクリート造りが普及し始めたのは、大正時代の中期からだった。竹中工務店は1909(明治42)年に会社組織になるや、14代藤右衛門の主導によりいち早く鉄筋コンクリート造りに取り組んだ。

 竹中が1912(明治45)年に建てた高島屋京都烏丸店は、3階建ての鉄筋コンクリート造りながら、外観は従来の土蔵造りであった。京都という土地柄を意識したからにほかならず、高島屋の社史「おかげにて一八〇」は<京都烏丸店の新築落成>の項を立てて、次のように書き留めている。

 <その時代のコンクリートの打ち方は、下で調合したものをバケツに入れ、足場伝いに担ぎ上げて流し込み、鉄棒で叩(たた)いて固めるという方法であり、大変な労力を必要としましたが、それだけにまさに手づくりの堅牢(けんろう)さがありました。(略)五月三十日に、約四八〇名の来賓の方々をお迎えして落成式を挙行し、六月一日には華々しく開店したのです。その建物は、高島屋の将来を祝福するかのようにすばらしい出来栄えで、京都らしい風雅な気品をたたえ、京都の人々の心をひきつけるとともに、貿易店や美術織物の陳列場をあわせもつ総合的な店舗となりました>

 高島屋京都烏丸店の建物は、14代藤右衛門が高唱した「作品」であり、ここに竹中の真骨頂を示している。

 1913(大正2)年には、伊藤忠安土町倉庫(大阪市)が完成をみた。5年後に伊藤忠商事の社長に就く2代伊藤忠兵衛は、こう回顧している。

 <火事に見舞われた以上不燃焼物にすべきだとの考えで、在英中買入れた三冊の「鉄筋コンクリートと建築考」を精読して、倉庫の建設を計画した。完成が大正二年の春で、日本で三階のコンクリート建築ができたのは最初であった。それに力を得て翌三年に本町二丁目にビルディングを計画した>(「私の履歴書経済人1」日本経済新聞社編に所収)

 鉄筋コンクリート造りの「作品」を通して、竹中と伊藤忠は信頼の絆を深めた。竹中の社史から、エピソードを引きたい。

大阪三井ビルの建築現場に出て、コンクリートを流し込む14代竹中藤右衛門(1933年) 拡大
大阪三井ビルの建築現場に出て、コンクリートを流し込む14代竹中藤右衛門(1933年)

 <この倉庫が建設されてから半世紀以上を経過した昭和41年、イトウビル竣工(しゅんこう)に際して竹中は感謝状を拝受した。その中で、伊藤社長は次のように昔を偲(しの)んでいられる。“(略)日本で初めての鉄筋コンクリートの建物で、当時40歳前の先代藤右衛門さんが、毎日のように現場においでになり、わたしと2人でコンクリートの隅を棒でつつきあった思い出もあります”。この明治45年に、伊藤氏は26才、竹中は35才であった。コンクリートのつきかために流された汗は、若い情熱のほとばしりとして忘れられないものとなってきた>

 さて竹中工務店は、1916(大正5)年に定款の一部を変更する。「建築工事の請負」とあるのを、「建築工事の請負並びに設計監督」と改めた。この頃の業界では、設計と施工の分離について、活発な議論があった。竹中では当初から<建築工事ということの中には当然設計業務も含まれるものと考えられていた>(社史)。そこで竹中は、業界の動きを見越したうえで、自社の信念を定款に書き加えたのである。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は4月17日に掲載予定)

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