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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/15 「大大阪」を象徴した堂島ビル=広岩近広

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九州支店の設計部を巡回する14代竹中藤右衛門(1958年) 拡大
九州支店の設計部を巡回する14代竹中藤右衛門(1958年)

 第一次世界大戦は1914(大正3)年に始まり、4年を経て終結した。1920年には株式の暴落をきっかけに、戦後恐慌に見舞われる。それでも建設業界の打撃は一般産業に比べて少なく、この年の4月、大阪に高層ビルを建てる計画が持ち上がった。

 ビルの建設母体となる「株式会社堂島ビルヂング」が設立されると、14代竹中藤右衛門は参画者の一人に名を連ねた。藤右衛門は著書「私の思い出」(全国建設業協会)で、高層ビルに新風を吹き込んだ米国の「ジョージ・フラー社」に言及して、率直に記している。

 <明治時代の建築界は主として英独の影響を受けることが多かったのが、大正になるととくに建築業界は米国に学ぶところが多くなった。そのうちでも最も大きな刺激を与えたのは、フラーが東京で丸ビルと郵船ビルをほとんど同時に着工したことであった。施工技術と労務管理と請負方式との三点で、われわれ業者は瞠目(どうもく)せざるを得なかった。(略)この丸ビルの起工は大正九年(一九二〇年)で竣工(しゅんこう)は十二年一月頃であった>

 フラー社は1913年に世界一高いウールワースビル(57階建て)を、ニューヨークに建設していた。当時、高層のオフィスビルを建てる場合、米国の技術が求められたといい、藤右衛門は<米国の建築家の設計したものをわれわれ業者が施工するというケースが多くなってきた>と述べている。

 1920(大正9)年4月、藤右衛門はさっそくアメリカに渡った。ニューヨークに着くや、日系アメリカ人建築家の妻沼岩彦を訪ね、堂島ビルの基本設計を依頼した。神戸から帯同してきた設計部の島本四郎を、妻沼建築事務所に預けたのは、島本を堂島ビルの設計に参加させるためであった。

 このあと藤右衛門は、各国の業界視察に回る。米国から欧州のパリ、ローマ、スイス、ロンドン、ベルリンに及んだ。神戸の本店には、所感を交えた報告書が次々と届いた。たとえば<設計について>、社史は次のように伝えている。

 <設計者は実に大なる智能(ちのう)を有せねばなりません。この意味に於(おい)て設計部の人々は常に修養を加えられんことを希望します。常識もまた大必要です。全く、新日本の建設は諸君の双肩にかかり現代文明を後世に伝える底(てい)のものと思料し、責任を感ずる大なり>

 ところで、藤右衛門が積極的に諸外国を訪問しているとき、堂島ビルの計画は変更を余儀なくされた。御堂筋の拡張が決まり、敷地を削減することになった。竹中は妻沼の基本設計を尊重する条件で、設計施工を一括担当した。

竹中工務店が建築工事中の堂島ビル(大阪市北区、1923年) 拡大
竹中工務店が建築工事中の堂島ビル(大阪市北区、1923年)

 こうして地下1階、地上9階建ての堂島ビルは1921年9月に起工し、2年後の7月に完成をみる。延べ面積約2万平方メートルの高層オフィスビルで、7階と8階には堂島ホテルが入った。大阪毎日新聞は1923年7月11日付紙面で、施設や入居店舗などを詳細に紹介し、こう報じた。

 <暗がりの家に納まり返って済ましていた大阪人の建築に対する考へも時代の流れと共に改まり行き平面から立体へと大(だい)大阪の変化は著しい>

 堂島ビルは「堂ビル」の愛称で呼ばれ、東京駅前の丸ビルと並んで注目を集めた。「大大阪」を象徴する高層ビルであった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は4月24日に掲載予定)

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