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常夏通信

その89 戦没者遺骨の戦後史(35)調査すらできない「満州」の20万体

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博多にたどり着いた満州からの引き揚げ者。営々と築いた財産のほとんどを現地に残してきた。孤児も少なくなかった=1946年6月10日撮影
博多にたどり着いた満州からの引き揚げ者。営々と築いた財産のほとんどを現地に残してきた。孤児も少なくなかった=1946年6月10日撮影

 1952年度以来、日本政府は戦没者の遺骨収容を行ってきた。海外で亡くなった240万人のうち、これまでおよそ128万人の遺骨を収容したとしている。残るのは112万体だ。このうち、所管の厚生労働省は「相手国事情により収容が困難な遺骨」が約23万あるとしている。「相手国の事情だけじゃないでしょ。日本政府の事情でもありますよ」。一年中「8月ジャーナリズム」=戦争報道をしている常夏記者こと私は、そう突っ込みたくなる。

問題は中国の「事情」?

 「相手国事情」の多くが「中国東北地方(ノモンハンを含む)」だ。この地域では戦争で亡くなったおよそ24万5000人のうち、収容できたのは4万に満たない。今でも20万人以上の遺体が、日本海の対岸に眠っているのだ。

 「中国東北地方」とは、かつて満州国があった地域だ。敗戦時、ここにはおよそ155万人もの日本人が住んでいた。日本は日露戦争でロシアを破り、旧満州(現中国東北部)を勢力下に収めた。関東軍はその権益を守るために1919年に創設された。31年、満州の主要都市奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の国策鉄道である南満州鉄道会社(満鉄)の線路が爆破される事件が起きた。関東軍は中国側の仕業と発表して侵攻を開始し、満州の主要都市を占領した。だが実際は関東軍の幹部が現地部隊にやらせたもので、武力で満州全域を支配するための謀略だった。

 翌年には満州国が建国された。執政に就いたのは中国清朝最後の皇帝であった溥儀(のち皇帝)であった。「五族協和」「王道楽土」がスローガン。日本人と漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人が協調して暮らす。権力によって民衆を統治する覇道でななく、徳をもって国を統治する。そういうことだ。

五族協和? 王道楽土?

 しかし実際は、内政も外交も軍事も日本人官吏や関東軍が握る、大日本帝国のかいらい国家、事実上の植民地だった。

 満州国建国から9年後の41年12月、世界随一の工業力を誇るアメリカと戦争を始めた日本の主な産業は、農業だった。ただ、膨大な労働人口を吸収するには耕地が足りなかった。植民地満州は、日本政府にとって国民の入植を進めるにはかっこうの地域であった。36年、広田弘毅内閣は20年間で100万戸、500万人を入植させる計画を立てた。計画には遠く及ばなかったが、…

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