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東京へ ともに歩む

毎日新聞

リオ五輪でトライアスロンに出場した加藤友里恵さんは、「励まされるのがうれしかった」と話した=東京都港区で2021年3月30日、内藤絵美撮影

東京・わたし

東京五輪で励ましや勇気再確認したい オリンピアン・加藤友里恵さん

 トライアスロンで2016年のリオデジャネイロ・オリンピックに出場した加藤友里恵さん(34)は、東京2020大会出場を目指していたが、昨年秋に引退を決めた。小学校からの夢をかなえたオリンピアンにとって、オリンピックとはどのような存在なのか。新型コロナウイルスへの不安を抱えながら聖火リレーが続く3月末、加藤さんに聞いた。【聞き手・本橋由紀】

     ――リオ・オリンピックはご自身にとって、どのような大会でしたか。

     ◆オリンピックでは、金メダルを目指す選手と自分との差を感じました。小学校6年生の時にトライアスロンでオリンピックに出たいと思い、出場したのは29歳の時です。夢がかなったという感覚が強くありました。日の丸を背負ったのは初めてでした。世界大会は陸上からトライアスロンに転向してから。年齢を重ね、気持ち的には成熟していましたが、もう少し経験値をあげていればと思いました。

     とはいえ、オリンピックでは「みんなが主役」という感覚を味わうことができました。開催国のブラジルの方たちは、母国だけでなく、日本や他の国の選手の名前もわざわざ覚えてくれて応援してくれて、すごくすてきでした。トライアスロンは「優勝した人が一番」という競技で、世界記録はなくて、そのレースで1位の人がすごい。でも、オリンピックでは最後の最後の選手に対しても観客からの途切れない声援がありました。

     ――トライアスロンと聞くと過酷なアイアンマンレースを思い浮かべますが、オリンピックディスタンスですね。

     ◆水泳1・5キロ、バイク(自転車)40キロ、ランニング10キロです。アイアンマンレースと違いスピード勝負です。第4の種目といわれるトランジション、つまりスイムからバイク、バイクからランに乗り換えるところも競います。

    トライアスロンは「私のスポーツ」

    リオ五輪・トライアスロン。海から出て走る加藤友里恵さん=リオデジャネイロのコパカバーナ海岸で2016年8月20日、梅村直承撮影

     ――なぜ、トライアスロンを選んだのでしょうか?

     ◆小学校5年生の時に、競泳でジュニアオリンピックに出ました。走るのも好きで6年生の時に出場したマラソン大会に、ゲストでトライアスロンの庭田清美さんが参加していました。トライアスロンが2000年のシドニー大会で正式にオリンピック種目になる前ですが、「これは私のスポーツだ!」と。でも、子どもながらに、まずは水泳と陸上を極めて、おとなになってからやろうと思ったんです。

     ――「私のスポーツだ」と?

     ◆水泳と陸上が好きだったので、ぴったりだと思いました。でもまわりでは「トライアスロンって何?」という感じでしたから、小学校の卒業文集には、トライアスロンでオリンピックと書きたかったところを、水泳選手と書きました。

     中学では水泳部が廃部になり、陸上部に誘われました。スイミングスクールで水泳をするのも物理的に難しくなりました。同時に陸上では県大会でギリギリ8位に入賞するようになりました。高校と大学はスカウトされて進学。大学ではトライアスロンをやりたかったのですが「1年だけ陸上やれば伸ばす」と言われました。そうしたらすごく伸びて、結局、実業団までやりました。実業団は東日本実業団対抗駅伝と全日本実業団対抗女子駅伝に出場しましたが、1年目の冬に足のアキレスけん付近のけんがほぼ断裂していました。当時の体重は38キロで、リミットは42キロ。これをキープするために、エアロバイクを1日7時間くらいこいで、これはトライアスロンに転向するきっかけだと、ケガでネガティブになりかけた気持ちを切り替えました。

     自律神経も乱れて2年間くらい、メンタルと体のバランスもこわしました。リバウンドで体重が62キロになった時は、自分の気持ちが弱いからだと思ったのですが、自分自身を受け入れ、食べてはいけないという制限から解放し、こんな自分はダメだと考えるのではなく、完璧じゃなくてもいいと。そして、頑張りすぎないことを目標にしました。走ることが嫌いになり、そういう自分が嫌いになったので、トライアスロンは嫌いにならないように、陸上の教訓を生かしました。トライアスロンを愛するように取り組んだら、結果につながり、体も変わり、気持ちも前向きになりました。24、25歳の時です。

     ――いよいよトライアスロンにチャレンジしたのですね。ロンドン大会の前ですね。

     ◆ロンドン・オリンピックをテレビで見た時は自分の現実とスクリーンの向こうの人たちの圧倒的な意識の違いに「わたし、オリンピック無理だな」って思ったんです。でも性格的に、ここで諦めたらこれからの人生がダメになると思い、リオを目指すことにしました。

     ――その時の立場やお仕事は?

     ◆陸上を退いてから稲毛インターナショナルトライアスロンというチームに入会し、最初の2年間ぐらいはフロントでバイトをしながら練習して、かつかつの状況でした。でも、日本選手権に初めて出場して11番になり、歯車がちょっとかみ合った感じがしました。13年からはオリンピックに出るためのポイントを獲得するレースで表彰台に上がれるようになり、14年にワールドカップで2位の表彰台にあがることができました。そこから徐々に自信がついて、2年後のオリンピックに出場できました。

     ――オリンピックで得た最大のものはなんですか。

     ◆アスリートとしてはどうかと思いますが、応援してくださったたくさんの方がすごく喜んでくれたのがうれしかったです。私はアスリート気質ではなく、あまり勝ちたいと思えない。自分の影響で誰かが元気になったり、勇気づけられたり、励みになったりすることが、自分の励みになります。オリンピックの(46位という)結果は悔しいですが、応援されていることが一番幸せでしたし、自分もそれ以上に与えたいという気持ちになりました。

     ――一番記憶に残っているオリンピックの場面は?

     ◆シドニー・オリンピックの高橋尚子さんです。自分の夢を支えています。憧れです。今もたまにマラソン大会でお目にかかることがありますが、高橋さんの振る舞いには感動します。人間味があって、金メダルを取るために生まれてきたんだなと。マラソンはいつかサブ3で走りたいなという気持ちがあります。40歳、50歳でサブ3の方もいますから。

     ――パラリンピックはご覧になりますか?

     ◆同じチームにパラリンピック選手の秦由加子さんらがいました。レースを見ると「アスリートだ」とちょっと励みになります。先日もパラリンピアンや東京パラリンピックを目指す選手と合宿をしたのですが、意識がすごく高い。宇田秀生選手は片腕がないのに健常者よりバイクが速いです。おこがましいかもしれませんが、次世代パラトライアスロンの選手のためにも何か力になれたらいいなと考えています。東京大会をきっかけに、オリンピックとパラリンピックが共存し合い、一つになったらいい。パラトライアスロンは魅力的なので、今後の普及活動でも小学生との触れ合いの機会を作れたらいいと感じています。

    「アスリート」とは何か

    「あまり、アスリート気質ではないんです」と話す加藤さん=内藤絵美撮影

     ――「アスリート」という言葉が時々意味を持って出てくるのですが、加藤さんにとってアスリートとはどういう存在ですか?

     ◆アスリートは高みを目指して、自分自身に妥協しない。目標や立場がどうであろうと自分自身の決めたことに対してしっかり向き合って妥協しない存在かな。私も陸上の時はストイックで「これをしなければ、こうしなければ、こうでなければ、休んじゃいけない、プラスアルファでやらなければいけない」と自分自身にプレッシャーをかけていました。しかし、「自分を追い込むことだけがベストパフォーマンスに直結するのではない」ということも学び、アスリートは「自分自身に妥協しない」、そして「自分の心身としっかりと向き合える」存在だと思います。また、競技で表現し、感動や勇気を与える存在であると思います。体と気持ちをこわしたので、どういうやり方でも間違いではなく、健康第一だと思いました。

     ――健康のためにしていることは。

     ◆重複しますが自分を受け入れる。陸上の時はアメ一つにもちゅうちょしていました。これを食べると0.1キロ体重が増えるという生活を送ってしまいました。まずは規則正しく、人間らしいことが体にも心にもいいと学びました。トライアスロンの練習は1日4000から5000キロカロリー消費するので、たんぱく質も炭水化物もとる。でも、食べ過ぎて内臓に負担がかからないように意識していました。朝同じ時間に起きて日光を浴びるという初歩的なことも意識しました。トライアスロンは、水泳やバイクは浮力とマシンがあるので、陸上ほどのダメージのないバランスの良いスポーツです。もっと生涯スポーツとしても、子どもも憧れるスポーツとしても広がっていけばいいと思います。

     ――トライアスロンの練習はかなり時間がかかりそうですね。

     ◆基本的には5時間から8時間。3種目あり、2時間泳いで1時間食事して休憩し、バイクに3時間乗って2時間休憩してランニング2時間のあと休憩とか、1日中トレーニングです。現役の時は寝るか、食べるか、練習するかの生活でした。今考えるとよくやってたなと。ただ、クロストレーニングなので走るだけよりは負担は少なかったです。

     ――自転車を走る場所の確保もたいへんそうです。

     ◆茨城を拠点にしていたときは利根川沿いや成田の山沿いを走ったり、長野や宮古島に合宿に行ったりしました。海外ではメキシコやオーストリア、オーストラリア、ニュージーランドは思い出深い場所です。

    東京2020大会前に引退を決意

     ――さて、東京2020大会ですが、どのように思われていますか。

     ◆アスリートの立場としては、開催してほしいという気持ちが正直先行します。でもアスリート発信で励ましや勇気を伝えるには、やはり、周りの方たちからも開催してほしいという声があるのが一番です。オリンピック、スポーツの力を通じて、健康や、大きく言えば平和について、世界が一つになれるのが一番魅力的ですてきな形だと思います。

     ――海外の感染者数も多いです。

     ◆ネット交流サービス(SNS)では海外のどの選手も「東京に向かって」ということを発信しています。開催できるのか?という考えも理解できますが、スポーツをやっている暇なんてないという考えではなく、できればオリンピックを通して励まされ、勇気づけられることを再確認する大会になればいいと個人的には思います。

     ――その東京大会を前に引退を決意するのはたいへんだったのでは。

     ◆リオの後、東京に向けて積み上げていたのですが、海水アレルギーになりました。原因不明でしたが、海に入るたびに全身にじんましんが出るようになりました。リオ大会前後でも発症していましたが、気にしないようにしていました。でも、レースの時や疲れがたまってくる頃にじんましんがひどくなるので、もしかしたら、何らかのストレスがかかっていたのかもしれません。昨年2月のタイでのレース3日前に落車して右肩を、あ脱臼しました。完走しましたが、3番に入らなければいけないところ9番。その時点で東京への夢や目標は現実的に可能性が極めてゼロに近い状態になったところに、コロナが広がりました。

     あらためて自分自身を振り返り、9月ぐらいまで悩みましたが、誰かの励みや勇気になったり、普及のために力になったりしたいと考えました。11月にサイクリング教室をやり、12月から定期的に地元・銚子でランニング教室をしました。今年2月にはトライアスロンの普及活動のために「puente(プエンテ)」というチームを立ち上げました。プエンテはスペイン語で架け橋という意味で、その言葉通り、架け橋になる活動をしていきたいと考え、実行しています。トライアスロン選手やデュアスロン選手とトライアスロン愛好者、子どもたち、トライアスロンを始めてみたい方、市民ランナーのみなさんがつながれるような教室を開いて、選手の魅力も発信したいです。

    かとう・ゆりえ

     1987年生まれ。千葉県銚子市出身。小学生の時に、「トライアスロンでオリンピックへ」という夢を抱く。中学から実業団まで陸上中長距離に取り組んだ後、2010年にトライアスロンに転向。16年のITU世界トライアスロンシリーズ(ケープタウン)で8位入賞し、同年のリオデジャネイロ・オリンピックに出場した。昨年秋に引退し、トライアスロンの魅力を発信する組織「プエンテ」を設立し活動している。

    本橋由紀

    毎日新聞オリンピック・パラリンピック室委員/東京編集編成局編集委員。1963年東京都生まれ。1987年入社。東京社会部、英文編集長、夕刊編集部デスクなどを経て2011年に福島支局長、13年地方部長など。18年7月から現職。高校時代は水泳部、早稲田大学ではラグビー蹴球部副務を務めた。17年のつくばマラソンを3時間43分59秒で走り、ベストを更新した。