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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/16 関東大震災と米国式の高層建築=広岩近広

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海運業が発展した神戸市に1920年、竹中工務店が建てた海洋気象台 拡大
海運業が発展した神戸市に1920年、竹中工務店が建てた海洋気象台

 竹中工務店の施工で堂島ビル(大阪市北区)がオープンした2カ月後の1923(大正12)年9月1日、関東地方は激震に襲われた。午前11時58分に発生した関東大震災(マグニチュード7・9)の被害は内閣府のホームページによると、死者10万5385人、全壊全焼流失家屋29万3387戸に及んだ。東京と横浜を中心に壊滅的な打撃を受けた。

 14代藤右衛門が社長の竹中工務店は、東京支店や東京製作所さらに横浜出張所などが被災した。工事中や竣工(しゅんこう)間もない建物も火災などに遭った。神戸の本店(本社)は資材と職員を、銀行の用船に便乗して先発させる。9月12日にはチャーター船の三福丸で復興資材、運転手、職員50人を神戸港から送り出した。三福丸はさらに2往復して、資材と人員の追加輸送にあたっている。

 東京支店は仮事務所を転々としながら、得意先の建築修理をはじめとして復興に努めた。さらに東京市からの懇請により、学校建築の急造や警察関係の応急工事にも追われる。本店はもとより他支店からの派遣では人員が賄いきれず、窮余の策として縁故採用にも踏み切る。応急工事の殺到は空前絶後であった。

好々爺(こうこうや)の一面をのぞかせ、目を細めて愛孫を抱く14代竹中藤右衛門 拡大
好々爺(こうこうや)の一面をのぞかせ、目を細めて愛孫を抱く14代竹中藤右衛門

 ところで関東大震災の結果、アメリカ式の高層建築が地震国の日本にそのまま応用できないと判明した。たとえば丸ビルの被災について、「失われた近代建築1」(増田彰久/写真、藤森昭信/文、講談社)にこうある。<日本の地震力を軽くみて、中破。修理後でも、丸ビルホールの柱なんか、見た目にも細かったし、地震の時の揺れは他のビルよりよほど大きかったという>

 竹中の社史は<アメリカ式建築の教訓>として、次のように説明している。

 <アメリカ、特に東海岸を中心としては地震の心配は殆(ほとん)どない。そこに発達した高層建築においては、風圧が強度計算の重要ポイントであった。これに対して日本では鉄骨造やRC造(鉄筋コンクリート造)の導入開発以来、技術者は臆病すぎるほどの慎重さをもって対処した。それは地震による災害が過去何百年にわたって絶えず繰り返されていたからであった。(略)技術者はその慎重さ故に万全を期していたが、工期と工費の点で格段の差のある米国式を見て、これに範をとるような傾向が強くなっていった。そこへ襲来した大震火災は大きな警鐘であった>

 藤右衛門は、関東大震災を冷静に受け止めた。<焼けるものは焼け、倒れるものは倒れるという冷厳な審判を受けるに至った。この大震災のための応急措置以外の建設活動は一時全国的にストップ状態となったが、やがて東京を中心とする復興建設が始められることになる>(「私の思い出」全国建設業協会)

 なお竹中工務店は1923年12月、本店を神戸から大阪に移して、自ら手がけた堂島ビルに入る。大阪出張所は廃止し、神戸支店が新しく設置された。

 <本店の大阪移転はかねてからの予定であった。立地条件として大阪は神戸をはるかに凌(しの)いでいたことは言うまでもない。この大阪移転がたまたま関東大震災の直後に当たったことは、その後の竹中の活動を助けるのに大きな力となった>(社史)

 こうして竹中は、関東大震災を乗り越えていくのである。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は5月1日に掲載予定)

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