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急に自信をなくしてしまうときがある。どうしようもない孤独にさいなまれることだってある。そんなとき、気づいたら口ずさんでいた――。それが尾崎豊さんの曲だと思う。4月25日は尾崎さんの29回目の命日。「15の夜」「卒業」などで若者から圧倒的に支持されただけでなく、26歳の若さで急逝してから30年近くたった今も、多くの人たちの心を揺さぶっている。その理由を知りたいと思い、尾崎さんにゆかりがある2人にインタビューした。前編は、参院議員の蓮舫さん(53)。「なぜ政治家の蓮舫さん?」と疑問を持つかもしれない。メディアなどから当時「社会への反逆児」などと呼ばれたこともあった尾崎さんだが、取材を進めるとその素顔が浮かび上がってきた。【江畑佳明/学芸部】
壁面に刻まれたメッセージ
4月のある日。私は、東京・渋谷に立つ「渋谷クロスタワー」に足を運んだ。このビルの3階テラスには「尾崎豊記念碑」がある。1995年に完成し、尾崎さんの顔のレリーフと代表曲のひとつ「十七歳の地図」の歌詞が刻まれている。
歌碑の後ろには十数メートルにわたり、赤茶色をしたレンガ風の壁がある。その壁面にはファンが寄せたメッセージがびっしりと書かれていた。
「生きる勇気をありがとう」
「これからも強く生きるよ!」
「あなたがいなくても 近くにいると私は思っています」
「心の弱さに負けない‼」
長年の風雨のために消えかかっている文字もあれば、白色のペンでくっきりとつづられ、最近書かれたとわかるものもある。尾崎さんは亡くなった後も、悩める若者たちにとってのよすがだったに違いない。
尾崎さんは高校時代、ここからの夕日をよく眺めていたという。通っていた青山学院高等部にほど近い場所にあるからかもしれない。沈む夕日を見ながら、どんな思いを巡らせていたのだろうか。
突然の訃報、そのとき…
蓮舫さんに話を聞きたいと思ったのは、インターネットで偶然、ある動画を見つけたからだ。
その動画は、蓮舫さんが当時司会を務めていた情報番組「3時にあいましょう」(TBS系)。蓮舫さんは当時タレント。92年4月に同番組の司会に抜てきされたばかりだった。
言葉に詰まり、何度も目頭を押さえる。明らかに動転しているのが見て取れる。そして、伏し目がちにこう発する。
「日本の国民、万人に知られている歌手ではなかったけれど、若い子の人気がすごくあった人で……。私、個人的に知っていたんですけれども……、ごめんなさい」
画面の右下には「尾崎豊(26) 衝撃の急死!」のテロップが。このときスタジオでは何が起きていたのだろうか。
2004年の参院選で当選し、政界入り。保育園の充実など子育て環境の充実を訴え、旧民主党政権下では行政刷新担当相を務めた。最近では「森友・加計学園」問題や「桜を見る会」問題、コロナ対策などで政府の欠点を批判したり政策を提案したりするなどして、安倍晋三前首相や菅義偉首相をタジタジとさせたのは周知の通りだ。
それ以前は大学時代に音響機器メーカーのキャンペーンガールに選ばれ、CMやテレビ番組などに出演するなど、芸能界で活躍していた。
そんな蓮舫さん。参院議員会館で取材に応じ、「あのとき」をこう振り返ってくれた。
「本当に急に原稿を差し込まれたんですよ。『今、明らかになったから』と。原稿を見た瞬間にもう、ビックリして言葉に詰まってしまって」
司会という立場ではあるが、ニュースキャスターやアナウンサーのようなトレーニングは受けておらず、突然の大ニュースに動揺していた。
「『亡くなった』という第一報しかないのに、『とにかく引っ張って間を持たせろ』という指示が出て。だから、自分の思いを話すしかなかったんです」
その後はゲストを紹介するなど、映像からはやや落ち着きを取り戻したかのように見えたが……。「何があったのか、ほとんど何も覚えていません。本当につらい時間だったから。『尾崎先輩』とはしばらく会っていなかったうえ…
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