渋沢栄一を歩く

/8 水戸藩の追鳥狩 集団戦体験の軍事演習 /東京

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 前回、満16歳の渋沢栄一は1856(安政3)年、岡部藩の代官から「御用金(ごようきん)」調達を命じられ、嘲弄(ちょうろう)された。

     ◇

 栄一は江戸幕府の政治や不合理な身分制度に疑問を抱いた。才能や努力とは関係なく、相手が武士であるというだけでその支配に甘んじなければならない一農民として生きることが「実に馬鹿馬鹿(ばかばか)しいと心に浮かんだ」――と、後に自伝「雨夜譚(あまよがたり)」で振り返っている。それでも10代のうちは父の督励を受けて家業の藍玉製造販売に精を出し、多忙な日々を送った。

 この頃、時代は激動の幕末を迎えていた。1853(嘉永6)年、ペリー率いる米国東インド艦隊の「黒船」4隻が浦賀沖に来航。以降、日本に開国と通商を求める欧米列強への対応をめぐり、幕府と朝廷、有力諸藩を巻き込んだ激しい対立と抗争が15年にわたり繰り広げられる。米国の要求に屈した幕府は天皇の勅許が下りないまま日米修好通商条約(1858年)などを結び、これが各地の反発を招いて尊王攘夷(じょうい)論が高まっ…

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