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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/17 トラック諸島で海軍施設の工事=広岩近広

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米軍によるトラック諸島の日本軍基地爆撃=1944年2月、米国立公文書館所蔵 拡大
米軍によるトラック諸島の日本軍基地爆撃=1944年2月、米国立公文書館所蔵

 1931(昭和6)年9月、「昭和の15年戦争」(アジア・太平洋戦争)の起点となる満州事変が勃発した。すでに韓国を併合(1910年)している軍国・日本の暴走は、中国東北部に傀儡(かいらい)の満州国を建国するに及んだ。政府は国策の名のもとに、国内から大勢の国民や企業を占領地に送り出した。

 この年、14代竹中藤右衛門は推されて「日本土木建築請負業者連合会」の会長に就いた。国内外の激動を前に、業界が藤右衛門の手腕に期待したのは明らかだった。藤右衛門の「私の思い出」(全国建設業協会)から引きたい。

 <二・二六事件の昭和十一年前後から国内の情勢はますます騒然としてきたが、国策としては海外発展が強力に推し進められていた。業者もこれに順応してそれぞれに方策を考えているところへ、外務省や拓務省方面からも急速に態勢を整えるように要請されたので、有志を糾合して一層強力な企業体として進出を企画することになった>

激動の時代にリーダーシップを発揮した14代竹中藤右衛門 拡大
激動の時代にリーダーシップを発揮した14代竹中藤右衛門

 そこで1937年7月、竹中工務店など施工担当4社のもとに技術担当の建築事務所が集まって、海外進出に当たる企業体「匿名組合共栄会」を結成した。会長に推された藤右衛門は「私の思い出」に、こう書き留めている。

 <元来、未経験の海外での建設業を企図することはいささか大胆にすぎると思われようが、海外における工事に対してお互いに無謀の競争を避けて、業界一致の態勢で行かねばならぬと考えたことが、この組合結成の大きな動機であった。そのために見積も入札もあるいは必要な時は設計も監督もすべて共栄会の本社でこれに当たり、工事が決定したら、参加各社がそれぞれ責任をもって工事を分担することにしたのである>

 折しも日本政府が、メキシコ政府から建設開発事業の支援を求められ、これが共栄会として最初の仕事になった。さっそく藤右衛門は8月中旬、現地の視察と工事準備の用務を帯びてメキシコへの船旅に出る。この1カ月前、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中は全面戦争に突入し、藤右衛門が離日した翌日、戦火は上海に波及していた。なんとも物々しい渡航だった。

 日中戦争が泥沼化すると、軍部は局面の打開を求めて、無謀にも対米戦の準備に入る。1941年11月中旬、竹中は海軍の要請を受けて、海軍基地のあった中部太平洋・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に社員7人と大工、鳶(とび)職ら7人を派遣した。日本の委任統治により、島々の名前は「四季」と「曜日」からとっており、海軍は「夏島」に第4艦隊司令部を置いていた。竹中は「春島」での建築工事を命じられたが、いかなる施設だったのか。藤右衛門は「私の思い出」に、次のように記している。

 <この工事は海軍の施設工事とは言うもののその内容は刑務所施設を中心とするものだった。内地から囚人をこの島に送って軍の労務に使役する目的らしい。独居室、雑居室が計十一棟、教誨(きょうかい)室、受刑者病舎、隔離病舎、医務所のほかに洗身場とか倉庫、売店などもあり、その他種種の付属建物と庁舎など合計して五十五棟に及ぶもので、さらに水槽が二十七基あった。バラックに近いものであったが約半年で完成した>

 日米開戦になると、飛行場や砲台などの建設が急がれ、囚人部隊がその労働を担った。戦争の現実とはいえ、藤右衛門の嘆息が聞こえてきそうである。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は5月8日に掲載予定)

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