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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/18 画期的な竹中式潜函工法を開発=広岩近広

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日本が占領していた昭南市(シンガポール)は日本語の看板であふれた=1943年2月撮影 拡大
日本が占領していた昭南市(シンガポール)は日本語の看板であふれた=1943年2月撮影

 日中戦争下にあって、竹中工務店は1938(昭和13)年に大阪と東京に潜函(せんかん)工事部を新設した。土木建築の基礎工事に用いるのが潜函で、この函体による地下作業(ケーソン工法)時に、潜函病(減圧症のため筋肉痛や四肢のマヒなどを発症)が見られた。

 <多くの潜函病者が出ることが最もその難点であった。この難点を克服するためにオープン・ケーソンによることが合理的であるとしてたびたびその実験を工事現場で重ねていた>(社史)

 潜函病を克服した竹中式潜函工法について、「日本の『創造力』近代・現代を開花させた四七〇人 第10巻」(牧野昇、竹内均監修、富田仁責任編集、日本放送出版協会)は、次のように説明している。

 <この工法は、従来の地下階における構築の際の掘削工事が危険をともない、また日数や費用なども要したので、これを合理化することを意図したものである。この新しい工法では、地上において全地下部分の一体を潜函体として構築しておき、潜函の下部の地盤を掘削しながら、これを所定の位置に定着させる構築工法で、昭和十四年には「地下建築物の沈下工法」として特許を得た>

 14代竹中藤右衛門は「私の思い出」(全国建設業協会)のなかで、<この道のけわしさが感じられるとともに楽しさも一層である>と率直に述べている。オープン・ケーソン方式は、技術の竹中の本領発揮であった。

 一方で日本は1941(昭和16)年12月8日、米英に宣戦布告する。建設業者は軍への協力を要請され、陸軍主導の「軍建協力会」のもとで戦争完遂への貢献を求められた。竹中はすでに海外で事業を行う企業体「匿名組合共栄会」に参加しており、タイとビルマ(現ミャンマー)地域の工事を担った。藤右衛門の「私の思い出」から引きたい。

竹中式潜函工法の特許を申請した際のパンフレット 拡大
竹中式潜函工法の特許を申請した際のパンフレット

 <軍の進駐が始まると、タイ国内のあらゆる施設の急工事は勿論(もちろん)、時には所員が地理に明るいところから、軍の先頭に立って東道(とうどう)役を命ぜられるという有様であった>

 さらにシンガポールを占領すると、竹中は日本軍が「昭南市」と呼んだ現地で、飛行場兵舎や倉庫などの建築工事を命じられる。軍部が昭南市郊外のヒューム管工場(オーストラリア人経営)の管理と経営を委託してきたとき、竹中は昭南出張所の開設に踏み切った。「私の思い出」はこう書き留めている。

 <昭和十七年十月、軍の輸送船に便乗、服部幸一を主班とする社員約十名を送った。この輸送船も攻撃を受ける危険があるため、途中からは駆逐艦の護衛を受け、台湾、サイゴンに寄港、バンコクで上陸、それからマレー縦貫鉄道で任地に急行して作業を開始した>

 続けて藤右衛門は、ビルマの惨事に言及する。<軍建協力会の竹中班としてビルマに派遣したのは社員角田義郎を主班とする一隊であった。ラングーンを中心として全地域にわたって活動していたが、この間、工事現場で二名の社員が戦火の犠牲となったことは痛恨の極みであった>

 戦争は兵士だけでなく、建設業界の技師や職人も大量に動員された。藤右衛門の回顧録「私の思い出」は、そのことを伝えている。ともあれ軍事優先の世情にあって、竹中式潜函工法を開発した点は特筆されよう。

(敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は5月15日に掲載予定)

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