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関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/19 戦時下の悲愴な日々=広岩近広

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神戸に進出して60周年、訓示を述べる14代竹中藤右衛門 拡大
神戸に進出して60周年、訓示を述べる14代竹中藤右衛門

 アジア・太平洋戦争の転換点は1943(昭和18)年といわれる。日本軍守備隊のガダルカナル島からの撤退(2月)、さらにアッツ島の全滅(5月)が決定的だった。戦局の悪化は本土防衛の施策に及び、国内でも軍事関連の工事が急増する。それも突貫工事であり、資材の統制も日増しに強まった。

 そうしたなかで14代竹中藤右衛門は、建設業界の結束を呼びかけた。対して軍部は、業界の抑えつけにかかる。陸軍の「軍建協力会」に対して、海軍が主力業者を糾合したのが「海軍施設協力会」だった。

 <この二つの協力会はいわば軍が業者を専属化しようとする意図に発したと見ることができる。しかも殆(ほとん)どの大業者がこの両協力会の両方に参加させられたことから、陸海軍の抗争が参加業者にはね返ってきたのみならず、大量の工事が大業者に集中する傾向が増大して中小業者を圧迫する結果ともなった>(社史)

 是正を求める建設業界に対して、「軍建協力会」と「海軍施設協力会」は会員の業者に、軍の指示があるまで建設業界の新組織(統制組合)への参加を禁じた。軍事関係の工事を優先させるために、業界の締め付けを図ったのである。一般の民需工事が極度に圧迫されたうえ、民需といえども軍需か生産拡充に無縁だと手も出せない状態に置かれた。

 竹中の国内工事は、「軍建協力会」と「海軍施設協力会」による割り当てのみで、軍から直接発注される工事は避けていた。この背景には、名古屋鎮台の兵営工事を要請されたあげく、巨額の欠損を背負わされた経緯がある。藤右衛門は「私の思い出」(全国建設業協会)に、次のように記している。

 <こうなると竹中の立場は非常に困難なものとなった。軍の証明がなければ一本の釘(くぎ)すら入手できない。軍需工場や生産拡充工場の発注する工事についても、その資材は発注者に割り当てられて業者にではないために、そこにいろいろと問題が発生する。業者への直接割り当てを陳情したりしてもその反応はない有様であった>

幼少から書に親しんだ14代竹中藤右衛門の作品には人柄がにじみ出ていた 拡大
幼少から書に親しんだ14代竹中藤右衛門の作品には人柄がにじみ出ていた

 藤右衛門の信念は、戦時下でも変わらない。しかしながら、いかんともしがたい状況は、一事が万事といえた。

 <この苦境に立って幹部社員が、これではどうにも動きがとれない、自滅を待つばかりだから何とかして僅かでもよいから軍工事の受注を許してほしいと申し出たが、私は許さなかった。たとえ偏狭なと言われても頑固と笑われても私はそれを認める気になれなかった。仕事ばかりではなく、社員や永年出入りの下請などの日常生活が窮乏してくると急場しのぎに、田舎の土地を物色するから牛や豚を飼って自給自足の途を講じさせて呉れと申し出たりするほどのこともあった>(「私の思い出」)

 藤右衛門は苦渋の境地を、こう言い表している。

 <戦時中は生死の関頭に立っているだけに悲愴(ひそう)なものであった。それが本土決戦竹槍(たけやり)訓練にまで追いつめられた>

 安眠できる日さえもない、国内外の逼迫(ひっぱく)した状況下で、藤右衛門は敗戦の1945年を迎えるのだった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は5月22日に掲載予定)

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