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常夏通信

その94 戦没者遺骨の戦後史(40)水葬=棄兵・棄民の思想

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「帝国海軍の象徴」とも言われた戦艦「陸奥」は1943年6月8日、瀬戸内海の柱島泊地に係留中、原因不明の爆発で沈んだ=30年6月撮影
「帝国海軍の象徴」とも言われた戦艦「陸奥」は1943年6月8日、瀬戸内海の柱島泊地に係留中、原因不明の爆発で沈んだ=30年6月撮影

 第二次世界大戦下、連合国軍、特に米軍の潜水艦や航空機の攻撃によって多数の艦船が撃沈された。厚生労働省の推計によると海で戦没した日本人は30万人。戦史研究の第一人者である吉田裕・一橋大名誉教授によれば、35万人以上ともされる(『日本軍兵士』中公新書)。これらのほとんどを、我らが日本政府は「水葬」扱いして、十分に捜しもしなかった。「水葬」という風習は確かに昔からあった。たとえば前近代の民間船、遠洋漁業や冒険の航海中に病気などで亡くなった人がいたら、海に葬るのは致し方ないところだ。それが本来の「水葬」である。

物資目当ての引き揚げ

 一方、戦争は国策であり、米軍などに撃沈された人たちは国策の犠牲者だ。遺骨を収容して遺族に返す義務が政府にはある。遺族が「水葬のままでけっこうです」と言うなら別だが、私が知る限り国が遺族にそういう意思を聞いたことはない。30万体=水葬の論理は、戦争や他国侵略政策における棄兵・棄民、つまり多数の兵士を海外に送ったものの、満足に補給をせず見殺しにし、また国策として旧満州(現中国東北部)への民間人移民を推奨しながら、敗戦したあと何の支援もせず見殺しにした、日本政府の「基本政策」の延長にある。

 「水葬」扱いの多くが、外国の領海内や日本政府の支配が及ばない公海で亡くなった人たちだ。敗戦の後、日本は1952年まで連合国軍総司令部(GHQ)に占領されていて、外交権がなかった。つまり日本政府に戦争で沈没した船から遺骨を収容する意思があったとしても、それを相手国に直接申し出ることはできなかった。それどころか日本近海の沈船にある遺体、遺骨の収容ですらGHQの許可なしにはできなかった。当時の状況を、『引揚げと援護三十年の歩み』(厚生省援護局編・78年)で見てみよう。

 同書によれば、「水路の啓開又(また)は屑鉄(くずてつ)等金属資源活用等の必要から、大蔵省及び海上保安庁が連合軍極東海軍司令部の許可を得て、おおむね競争入札により船体、搭載物資などを業者に払い下げていた」。港から外海に出る水路に、撃沈された船が沈んでいる。これは邪魔だ。また沈船の鉄を回収すれば、資源として役立つ。こうしたことから、GHQの許可を得て沈船引き揚げが行われ、遺体や遺骨が収容された。

 たとえば49年、瀬戸内海に沈んでいる戦艦「陸奥」から、民間企業が搭載物資の引き揚げを始めた。缶詰やロープなどとともに、4年間で推定684体の遺体を収容したという。

 このように、日本近海の沈船からだけでも遺骨収容を進めるべきだった。ところが…

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