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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/20 人間のための真の建設=広岩近広

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招待を受けてアメリカに旅立つ14代竹中藤右衛門=1952年5月 拡大
招待を受けてアメリカに旅立つ14代竹中藤右衛門=1952年5月

 アジア・太平洋戦争の末期になると、米軍の日本列島への空襲が始まった。14代竹中藤右衛門は「私の思い出」(全国建設業協会)に、こう記している。

 <空襲が激化すると犠牲者も出る。発動機工場の現場で、設計事務所の人がすぐ前にある防空壕(ごう)に避難するが早いかその壕がやられたりした。建設と復旧に日も足りないところへ、工場疎開が始まる。その疎開のために牛車、馬車を集結していざ出発という早朝に一撃で吹き飛ばされたりもした>

 藤右衛門は敗戦の半年前、1945(昭和20)年2月に社長を退いた。長男の副社長にバトンタッチしたのは、経営陣の一新はもとより、1年前に設立された「日本土木建築統制組合」のサポートにあった。藤右衛門は業界に尽くそうと、社外活動のしやすい会長職(翌年に相談役)を選んだ。

 そして8月15日を迎える。藤右衛門の<すべては瓦解してしまった>の一言につきる敗戦であり、続けてこう述べている。

 <われわれが十年、十五年と精魂を傾けつくした仕事も、結局は戦争というものを中心としてカラマワリに終わったように思えてならない>

 日本の戦後は、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策下に置かれた。11月にはGHQと政府の要望もあり、藤右衛門は新設の「日本建設工業統制組合」の理事長に就任する。任意団体「特建協力会」の会長も務め、その後も藤右衛門は、貴族院勅選議員など各種の公職に推されるのだった。

 1952年5月、藤右衛門に米商務省から招待状が届いた。社史は<招聘(しょうへい)の主要目的は、戦前米国の特許をも得ていた竹中式潜函(せんかん)工法の説明を聞きたいということであった>と明記している。

 戦前に開発した竹中式潜函工法は戦後も生かされ、日活国際会館(東京)と第一生命ビル(大阪)の建築から適用が始まった。ちなみに1951年に毎日新聞社の「毎日工業技術賞」を、翌年には「日本建築学会賞」を受賞している。

 技術の竹中を推進した藤右衛門にとって、名誉の訪米だった。このとき相談役の藤右衛門は75歳ながら、アメリカにとどまらず欧州まで視察の足を運んだ。75日間にわたる外遊となり、この間に視察報告が頻繁に届いた。<研究をすべし>と書かれた末尾に、竹中の社員らは胸をうたれるばかりだった。

 戦後の復興に手応えをみた藤右衛門は、「私の思い出」に明記している。

皇太子殿下(現在の上皇陛下)ご結婚で祝宴の儀に参列した14代竹中藤右衛門夫妻=1959年4月 拡大
皇太子殿下(現在の上皇陛下)ご結婚で祝宴の儀に参列した14代竹中藤右衛門夫妻=1959年4月

 <人間のための真の建設らしいものが芽を出しかけたのは最近数年来のこととみてよいであろう。これは敗戦国民であるが故の感傷ばかりではあるまい>

 藤右衛門は業界を背負って、次のように総括するのだった。

 <常に社会の恩義を忘れてはこの事業は成り立たないし発展もしないと考えてきた。(略)個々の業者については、それぞれの特徴もあり分野もある。しかし業界全体として見たときの発注者が社会全般である業種は、そう多くはないと思う。それだけに私は社会からの恩義を忘れてはならないと思うのである。それとともに、社会から与えられた尊い示唆や、きびしい批判が大きな力になったことも忘れてなるまいと思う>

 社史に人あり――<人間のための真の建設>を志向とした14代藤右衛門は、竹中工務店の礎を築き、戦中戦後を通じて業界のリーダーであった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。竹中工務店編は今回で終わり、次回の5月29日からロート製薬編を掲載予定)

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