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村上春樹をめぐるメモらんだむ

英文学の名作と並べてみると…/警句的表現、時代の「光と闇」

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阿部公彦「英文学教授が教えたがる名作の英語」
阿部公彦「英文学教授が教えたがる名作の英語」

 英米文学研究者で文芸評論家としても活躍する阿部公彦・東大文学部教授が「英文学教授が教えたがる名作の英語」(文芸春秋)という本を出した。軽いタッチのタイトルが示すように、対象とする読者は高校生から大学の教養課程ぐらいまでの英語学習者が想定されている感じだ。注目したのは、ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」(1719年)、ジェイン・オースティン「高慢と偏見」(1813年)、アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」(1952年)といった名作と並んで、村上春樹さんの短編小説「シェエラザード」(2014年)が取り上げられているからである。

「広域汎英語文学」の一部に位置づけ

 もちろん、村上さんは日本語で書く日本の作家なのだが、阿部さんは「彼(村上さん)が英語圏の作家から大きな影響を受けていること、そして今や、英語圏の作家や読者にも広く読まれる存在となっている」と、ここに加えた理由を述べ、「『広域汎(はん)英語文学』の一部をなす日本語圏の作家の1人」と村上さんを位置づけている。

 この本は7章で構成され、他にジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」(1726年)、エドガー・アラン・ポオ「黒猫」(1843年)、F・スコット・フィッツジェラルド「リッチ・ボーイ」(1926年)の計7作について、英語原文(村上作品は英訳文)の抜粋と日本語訳、語彙(ごい)や文法の基礎的な解説、読みどころの説明が載っている。こういうと、学校で勉強した対訳教材が思い浮かぶだろうし、そういう性格もあるのだが、読みどころなどの文章が丁寧で、それ自体、面白い読み物になっている。18世紀以降の近代英語圏文学の歴史が分かりやすく頭に入ってくるのもありがたい。

 例えば、小説の起源には「旅行記」と「作法書」の二つの潮流があったという。これらは、17世紀までの大航海時代以降、遠い異国の文化との接触が増えたこと、名誉革命(1688~89年)などを経て身分が流動化し、人々が上の階級の文化を身につけようとしたこと――に、それぞれ対応する。旅行記をモデルとした小説の代表が「ロビンソン・クルーソー」や「ガリヴァー旅行記」で、作法書に由来する「人生指南の具体例」としての小説の代表に挙がるのが、女性の結婚に至る過程を描いた「高慢と偏見」だ。

短編小説「シェエラザード」とは

 さて、村上さんの「シェエラザード」は、既に英語版も出ている短編集「女のいない男たち」に収められた作品で、ファンには周知だろうが、一般に著名な小説とは言えないと思われる。ちなみに、本のタイトルはヘミングウェイの短編集「Men Without Women」がヒントになったようで、村上作品の英訳も同題である。

 まず簡単に「シェエラザード」の粗筋を紹介する。いかなる事情でか北関東の小都市にある「ハウス」と称する家に一人で暮らし、外部との交渉を絶っている男「羽原(はばら)」のもとに、名前を名乗らない30代の主婦が週2回のペースでやって来る。彼女は「連絡係」として必要な買い物や身の回りの世話をするだけでなく、訪問の度に必ず羽原と性交渉を持ち、そのあと「ひとつ興味深い、不思議な話」をしてくれるという設定だ。女性は「千夜一夜物語」の語り手にちなんで、羽原からひそかに「シェエラザード」と呼ばれる。彼女の披露する、何とも奇妙で興味深い「体験」談が作品の中心になっている。

キーワードは「なぞなぞ性」「親密さ」

 阿部さんは、村上さんの短編がしばしば「奇譚(きたん)仕立て」になっていると述べ、「シェエラザード」もその例として扱っている。英訳文とともに引用されるのは、この女性が「私の前世はやつめうなぎだったの」と語る作品前半の部分だ。具体的な英語表現を解説したうえで、言葉の「なぞなぞ性」(英語ではenigma)や、作品全体が醸し出す「親密さ」(intimacy)といった村上文学の特徴を、阿部さんは論じている。

 この作品は、初め米文学者・翻訳家の柴田元幸さんが主宰する文芸雑誌「MONKEY」に発表された。…

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