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日本から南洋マーシャル諸島の戦地をへて77年前に米国に渡った5枚の写真がある。米国ペンシルベニア州に住むデビッド・ワッセルさん(59)が南洋で日本兵と戦った「ハリーおじさん」の遺品から見つけたものだ。幼子の姿もある写真を手にして思いを巡らせるのは、遠い戦地で命を落とすまでこの写真を持っていた日本兵と、帰りを待っていた家族の姿だ。ワッセルさんは「日本人の家族のもとに返したい」と願っている。

5枚の写真は大切に保管されていたためだろうか、撮影された人の姿が鮮明に残る。子ども3人とその両親のように見える男女の計5人が記念撮影のようにそろった写真があるほか、男性と男児の2人▽木刀を持った若い男性▽着物姿の女性▽着物姿の男性――がそれぞれ写っている。
「元気だから心配しないで」
写真を米国に送ったのはワッセルさんの遠い親戚にあたる海兵隊員だったハリー・ダイニンガーさん(25歳で戦死)。マーシャル諸島に出征中の1944年3月、亡くなった日本兵が持っていたこれらの写真を故郷の両親に送った。
送った理由は定かではないものの、同封されていた手紙には「僕たちが戦っている相手がどんな感じなのか分かると思う」とある。ハリーさんの故郷では当時日本人に会ったことがない人が大半とみられ、ワッセルさんは「心配している母親に自分はこんな人たちに会ったと伝えようとしたのでは」と推測する。
その後、沖縄に転戦したハリーさんは45年5月に銃弾を胸に受けて故郷には帰れなかった。ワッセルさんは祖母の姉と結婚したハリーさんの兄、ボブさんにかわいがられて育ち、2002年、ハリーさんが戦地から両親に宛てた100通を超える手紙を地下室で見つけたという。「僕は元気だから心配しないで」「いい方向に向かうはずだから大丈夫」「早く帰りたい」。そこには家族を思う言葉があふれていた。
1944年に南洋から故郷に送付
数カ月かけて読み進める中、封筒から日本人の写真を見つけた。その家族の思いを感じて返したいと考えたものの、郊外の小さな町に住むワッセルさんが日本人と接することはほとんどない。3年前、大統領選の取材で町を訪れたニューヨーク在住の取材ディレクター、福山万里子さん(54)と知り合ったことをきっかけに遺族捜しに動き出した。
写真は送られた手紙の時期や内容から44年2月にあったエニウェトク(当時の日本名・ブラウン)環礁の戦いの際、ハリーさんが手にした可能性が高い。防衛研究所によると、ハリーさんがいたエンチャビ島とパリー(日本名ではメリレン)島で激しい戦闘があり、7割以上にあたる約2000人の日本兵が亡くなった。手紙を送る前にハリーさんは戦闘後のクエゼリン環礁も訪れていた。
ワッセルさんは「ハリーおじさんや亡くなった日本兵が生きて年を重ねていれば『違う国の人間と戦うより家の中で孫と口げんかしている方がよっぽどいい』と思えただろう。そういう人生を送ってほしかった」と思いやる。ボブさんも晩年に「戦争でロシア人に会ったが私たちとあまり変わらない人間だった。敵としてあおって亀裂を生むのは良くない」と話していたという。

家族に会って話を聞いてみたい
楽天的で家族思いだったハリーさんの手紙につらい描写はほとんどない。ただ、沖縄上陸後は自分の誕生日を忘れたり、老人のような言葉が増えたりと戦いの過酷さがうかがい知れた。

同じ隊にいた幼なじみがハリーさんの両親に宛てた手紙には「彼が話していたのは家に帰ることだけ。アメリカのため、自由のために亡くなったとは言いません。即死であり、兵士としては最良の死に方だった」とあった。ワッセルさんは「彼が伝えたかったのは、国のために死んだというきれいごとではない。これがリアルな兵士の心情で国のトップが伝えたい戦争とは違う」と話す。若者たちが戦争にいかなくて済むように、との思いを込め、これらの手紙を載せた長文を地元紙に寄稿している。
写真に写る人物の家族が見つかれば会って話を聞いてみたいという。「写真の人はどんな人だったのか。地球の反対側で育った人だけど、きっとハリーおじさんたちと同じような若者だったと思うんだ」【竹内麻子】
情報提供を呼びかけています
写真に関する情報をお持ちの方は「毎日新聞社会部 戦時下の写真係」宛てにメール(t.shakaibu@mainichi.co.jp)かLINE(https://lin.ee/xH8MkEj)もしくは郵便(〒100―8051 東京都千代田区一ツ橋1の1の1)でお知らせください。