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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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ロート製薬/1 私財を投じて盲ろう教育施設を創設=広岩近広

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ロート製薬の創業者で、篤志家の山田安民=同社提供 拡大
ロート製薬の創業者で、篤志家の山田安民=同社提供

 国の重要文化財に指定されている日本聖公会奈良基督(キリスト)教会(奈良市登大路町)は、近鉄奈良駅から「東向商店街」を歩いて数分の近場にあった。目当ての金属プレートは、和風意匠に包まれた教会の正門前に掲示されていた。プレートに書かれた全文を、読み仮名をつけて紹介したい。

 <奈良県における障害者教育発祥の地 1920(大正9)年4月22日、山田安民(やすたみ)氏を校主に、盲児4人を対象に小林卯三郎(うさぶろう)氏によって、私立奈良盲唖(もうあ)院が開学された 2011(平成23)年4月22日 奈良県立盲学校同窓会>

 目や耳が不自由な児童向け教育施設の校主、山田安民は大手製薬会社「ロート製薬」(大阪市生野区)の始祖で知られる。安民は1868(明治元)年2月、大和国宇陀郡池上村(現在の奈良県宇陀市榛原池上)に生まれた。31年後の1899(明治32)年2月、大阪市南区東清水町(現在の中央区東心斎橋筋1)で「信天堂山田安民(あんみん)薬房」(ロート製薬の前身)を創業する。

 安民は優れた感性と文才の持ち主で、新製品の胃腸薬を「胃活」と名づけ、点眼目薬は横文字の商品名「ロート目薬」で売り出す。山田安民薬房の新薬は大ヒットを続け、大正期には業界で不動の地位を確保した。そこで私立奈良盲唖院の創設だが、宇陀市の「広報うだ」は、次のように説明している。

 <山田安民は、教育にも尽力しました。日本の視覚・聴覚障がい者に対する教育は、京都、次いで東京で開始されました。その後、各地の有志によって、視覚・聴覚障がい者のための学校が設置されていきました。しかし、奈良県では、県議会が施設の設置を建議(明治38年/1905)したものの、財政難のため実現しませんでした。このため、安民は、私財を投じて奈良県最初の盲ろう教育施設を創設しました>

山田安民が創設した「私立奈良盲唖院」の開学を紹介するプレート=奈良市登大路町の日本聖公会奈良基督教会で 拡大
山田安民が創設した「私立奈良盲唖院」の開学を紹介するプレート=奈良市登大路町の日本聖公会奈良基督教会で

 では、プレートの一文から校長と察せられる、小林卯三郎と安民の関係はどうだったのか。いささか長くなるが、ロート製薬の社史から引きたい。

 <初代校長になる小林卯三郎は大正7、8年ごろ、兵庫県淡路島の洲本で訓盲院(今の盲学校)を開いていた。親戚のすすめで、本籍地の京都へ引き揚げることになったが、そこへ淡路島のある小学校長から「京都へ帰るなら、奈良県には盲学校がないから、設立してはどうか」といってきた。

 小林は、その夏、淡路島で開かれた大阪の女学校卒業生のための夏期講習会で家庭マッサージを教え、奈良での盲学校設立の構想を話した。受講生の中に安民の娘がいた。そのとき、安民も洲本に避暑に来ており、娘から話を聞いて翌日、講習会場で小林と会い励ました。「奈良県で、もし盲学校を設立されるなら力になりましょう」>

 こうして奈良基督教会の一室を借りて、私立奈良盲唖院は開学する。安民は校長の小林卯三郎に設立基金を提供し、さらに月々の仕送りも続けた。このあと1931(昭和6)年に奈良県に移管され、盲ろう教育の分離から「奈良県立盲学校」となり、現在の大和郡山市丹後庄町に移転している。

 ドラマチックな出会いがあって、私立奈良盲唖院は誕生した。安民の信条は<何事も公共の仕事をするには、私利私欲を捨てて――>であった。心温まるエピソードの源泉を求めて、まずは山田安民の生い立ちからたどりたい。

 (敬称略。構成と引用はロート製薬の社史による。次回は6月5日に掲載予定)

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