特集

カルチャープラス

カルチャー各分野をどっぷり取材している学芸部の担当記者が、とっておきの話を報告します。インタビューの詳報、記者会見の裏話、作品やイベントの論評など、さまざまな手法で、カルチャー分野の話題の現象を記者の視点でお伝えします。

特集一覧

常夏通信

その95 戦没者遺骨の戦後史(41)海に眠る遺体や遺骨の「尊厳」とは

  • ブックマーク
  • メール
  • 印刷
戦争を題材にした名作を多数残した作家、吉村昭=2005年2月8日、栗原俊雄撮影
戦争を題材にした名作を多数残した作家、吉村昭=2005年2月8日、栗原俊雄撮影

 作家、吉村昭(1927~2006年)は丹念に調べた史実をもとに、数々の名作を残した。66年、「星への旅」で太宰治賞。同年の「戦艦武蔵」が作家としての地位を確定させた。ほかに「零式戦闘機」「陸奥爆沈」など第二次世界大戦に材を取った長編がある。短編にも傑作が多い。40年来の吉村ファンである私が繰り返し読んできたのは、「総員起シ」だ。戦時下に起きた、潜水艦の自沈事故を描いている。

吉村昭が描いた潜水艦事故

 事故が起きたのは44年6月13日、愛媛県伊予灘だった。大日本帝国海軍の潜水艦、「伊33」号の訓練中に異変がおきた。海中に潜る試験をしたところ、艦尾が下がって潜行していった。通常は2~3度の角度で艦首を下げて潜る。原因不明の浸水が起きていた。水深約60メートルに着底した。

 「伊33号」は42年6月10日、三菱重工業神戸造船所で竣工した。対米英戦が激しくなっていた時期の最新鋭艦だけに、期待は高かっただろう。2カ月の訓練の後、広島県の呉を出航、太平洋戦線に向かった。しかし9月、海軍の拠点だったトラックで事故により沈んでしまう。33人が殉職した。同年末に引き揚げられ修理された。44年4月にようやく復帰したところ、再び自沈してしまったのだ。後に分かったところでは、艦橋後部にある通気口の頭部弁に丸太が挟まっていた。直径5センチ、長さ15センチほどの小さなこの木によって、102人が殉職した。奇跡的に助かったのは2人だけだった。

 沈んだ場所は分かっている。日本の領海内だ。だれが乗っていたかも分かっている。これを放置したままにするのは、あまりにもむごい。我らが日本政府も同艦のことを懸案として認識していた。

敗戦後8年でようやく引き揚げ

 とはいえ、政府は主体的に引き揚げることはしない。民間企業に同艦を払い下げた。それで敗戦後8年が過ぎた1953年、引き揚げられることになった。50年に始まった朝鮮戦争の影響もあって、鉄などの戦略物資は需要が高かった。戦争の「特需」で、日本経済も上向こうとしていた。

 排水量2198トン、全長は108メートル、全幅9メートルあまりの同艦を、60メートルの深さから引き揚げるのは非常に困難だったが、同年夏に実現した。「引揚げと援護三十年の歩み」(厚生省援護局編・1978年)はその様子を記す。

 「難作業の末七月中旬にいたりようやく浮揚に成功、八月十三日広島県因の島の日立造船工場に曳航して解体作業を行い、十月二十四日作業を終了した。この結果全乗組員九〇名分の遺体を収容することができた」

 前述のように殉職者は102人だが、同書では90人が「全乗組員」となっている。何か意図があるのか、単なる情報不足だったのか。

 ともあれ、沈没からは9年が過ぎている。殉死者の遺体は腐敗が進んでいるか、すでに骨だけになっている、と考えるのが自然だろう。しかし、そうではなかった。

艦内で起きた「奇跡」

 吉村は自沈に関係した軍人、引き揚げに奔走する技術者、作業員、引き揚げを取材する新聞記者たちの姿を描く。以下は、艦内に入った記者の視点だ。

 「室内の光景が想像していたものとは全くちがっていたことを意識した。兵員室には、遺骨が散乱しているはずなのに、男たちは熟睡しているようにベッ…

この記事は有料記事です。

残り1361文字(全文2705文字)

あわせて読みたい

この記事の特集・連載
すべて見る
この記事の筆者
すべて見る

注目の特集