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常夏通信

その96 戦没者遺骨の戦後史(42)また、言いっぱなしの「約束」?

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日本海軍の特務艦「石廊」の遺骨収容で、同艦のマスト付近を調査するダイバー=パラオ・コロール島沖で2005年6月7日撮影(厚生労働省提供)
日本海軍の特務艦「石廊」の遺骨収容で、同艦のマスト付近を調査するダイバー=パラオ・コロール島沖で2005年6月7日撮影(厚生労働省提供)

 本連載その94、「戦没者遺骨の戦後史(40)水葬=棄兵・棄民の思想」で見たように、田村憲久厚生労働相は今年1月27日、参院予算委員会で、海中の戦没者遺骨の収容を進める方針を示した。「技術面だとか安全面のことがございますので、しっかりと勘案した上で基本的には遺骨を、遺骨収容を実施していくというような、そういうような方針で取り組んでまいりたいというふうに思っております」

 「水葬」扱い、つまり積極的に収容はしないし、探しもしないという原則を変えた、と言える。しかし、戦後補償問題を長く取材している私は、「本当に水没遺骨をちゃんと収容するの? 大臣はその気でも、実現する保証があるの?」とも思ってしまう。

 疑念の理由は大きく言って二つある。一つは、外国の領海内で遺骨を収容するのが容易ではないことだ。沈船の位置を確定させることがまず難しい。さらに、収容する許可を当該国から得なければならない。参考になるのが、大日本帝国海軍の重巡洋艦「那智」の事例である。

 和歌山県の那智山から名を取った同艦は、1928年に完工。41年12月の開戦後はインドネシアのジャワ島攻略作戦や、ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦であるアリューシャン攻略戦、さらには44年10月、フィリピン海域の戦闘(「レイテ沖海戦」)にも加わった歴戦の船だ。

 同海戦は日本軍が占領していたフィリピンに上陸した米軍を駆逐すべく、当時の連合艦隊の総力を導入した作戦だったが、惨敗した。「那智」は別の巡洋艦「最上」と衝突し損傷した。同年11月、ルソン島のマニラ湾で米軍機の空襲を受け、乗員およそ800人とともに撃沈された。

政府が大書する「成果」

 29年後の73年6月、「那智」と思われる船が現地のサルベージ業者に払い下げられ、さらに船体は海中で爆破されるという報道がなされた(『引揚げと援護三十年の歩み』・厚生省援護局編・78年)。船内には遺体、遺骨がある可能性が高いと判断した日本政府は、厚生省(当時)職員らを現地に派遣。ダイバーらの調査で、「那智」であることを確認した。しかし、すぐには収容できなかった。フィリピンの関係機関との調整が必要だった。収容が始まったのは1年半が過ぎた75年1月末だ。

 同書によれば、「作業は順調に推移してたが途中で大統領府(マラカニアン)からの命令ということで、遺体収容作業を打ち切らざるを得なくなつたため、九〇体の遺体と約五〇体の遺留品を収容しただけで本事業を打ち切つた」。フィリピン政府の意向で、収容を中止せざるを得なかったのだ。

 「那智」の戦没者のうち、収容できた遺体は9分の1でしかない。これを、厚生省が海外における遺骨収容の成果として書きとどめていることを確認しておこう。

 海に限らず外国での戦没者遺骨収容全般に言えることだが、収容を進めるためには相手国の協力が不可欠だ。「那智」の例のように、相手国の許可が得られなければ収容はできないし、途中でやめざるを得ないこともある。

 また、たとえばビルマ(現ミャンマー)のように相手国の政情が安定していなければ収容は進まない。あるいは日本側が、外国人と思われる遺骨を「日本人」と間違えて持ち帰ってしまったら、遺骨収容は中断してしまう。フィリピンやロシアで起きたように。

 こうした事例から見ると、だから日本政府の担当閣僚が「遺骨収容をやります」と言っても、そのまま信じることはできない。

「約束」を信じられない理由

 「本当にやるの?」と思ってしまうもう一つの理由は、遺骨収容に限らず戦後補償問題を巡って、政府の「言いっぱなし」の例があることだ。

 第二次世界大戦では日本人だけでおよそ310万人が亡くなった。遺族を含めれば被害者はさらに膨大だ。我らが日本政府は独立を回復した52年以降、元軍人・軍属や遺族への補償や援護を進めた。彼ら彼女らも国策である戦争の影響をそれぞ…

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