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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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ロート製薬/2 飛鳥時代からの「薬と神話の里」に生誕=広岩近広

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奈良県の宇陀市役所は、星薬科大学(東京都品川区)の本館スロープに描かれた飛鳥時代の「薬狩」などの壁画を縮小したレプリカを展示している 拡大
奈良県の宇陀市役所は、星薬科大学(東京都品川区)の本館スロープに描かれた飛鳥時代の「薬狩」などの壁画を縮小したレプリカを展示している

 奈良県北東部の宇陀市と薬草のつながりは、飛鳥時代にさかのぼる。宇陀市のホームページは、次のように説明している。

 <『日本書紀』推古19年(611)5月条に菟田野(うだのの)で推古天皇一行が薬猟(くすりがり)をしたという記載があり、これは史料で確認できるわが国最初の薬猟の記録である。薬猟とは宮中行事の一つで、男性は薬効の大きい鹿の角をとり、女性は薬草を摘んだといわれる>

 「菟田野」は「宇陀の大野」のことで、現在の宇陀市に該当する。この地には飛鳥時代から王権の猟場が設けられ、平安時代の9世紀後半まで禁野とされていたという。そこで宇陀市は、推古天皇の時代に日本最初の「薬猟」が行われた歴史を現代に生かそうと、2012年から「薬草プロジェクト」を発足させた。ちなみにロート製薬(大阪市)は、奈良県と宇陀市の3者で連携協定を締結し、16年から食と農をテーマに里山の地域資源を生かしたコミュニティーづくりを推進している。

 そのロート製薬の始祖で、私財を投じて私立奈良盲啞(もうあ)院(現在の奈良県立盲学校)を創設した山田安民は、現在の宇陀市榛原池上に生をうけた。社史は<池上は、「かりじの池」(猟路の池)といわれる大きな湿原の上にできた集落(標高317メートル)で、神話も多い>と記している。

創業者の山田安民が育った生家=奈良県宇陀市榛原池上で(ロート製薬提供) 拡大
創業者の山田安民が育った生家=奈良県宇陀市榛原池上で(ロート製薬提供)

 安民の生家は「山安」を名乗り、古い家系の家柄だった。祖父は温厚な人柄で、農作業のかたわら米の集荷・販売と菜種油の製造・販売を営んだ。家業は息子の安治郎が継ぎ、その妻はナカといった。夫妻の間には長女くに、長男卯之吉(うのきち)、次男重吉、三男岩吉が生まれた。子どもらは「薬と神話の里」で育ち、幼名の卯之吉が後の安民である。社史は少年時代を、こう伝えている。

 <農家の子ながら非常に勉強家だった。文章を書くのがうまかったし、字も上手で、15歳のとき、姉くにが嫁ぐにあたり、目録を書いた。のちに村の代用教員もつとめた>

 卯之吉の活字好きは徹底していたようで、おのずと筆が立つ理論家として注目される。この頃、卯之吉の関心は農業でも、薬業でもなかった。法律家を志して、大阪の関西法律学校(関西大学の前身)に入学する。

 <理想は東京帝国大学に進むことだったが、安治郎夫婦は思案に余り、叔父磯治郎(安治郎の実弟)の妻みつの妹いしの夫で、東京に住む森田源右衛門を頼っていくことをすすめた>(社史)

 森田源右衛門は薬の知識が豊富な研究家で、後に「森田薬房」を起業している。森田の家に、卯之吉が落ち着いたのは、1887(明治20)年ごろだった。森田のアドバイスもあって、これからは英語が必要だと得心した卯之吉は、当時の著名な私塾「国民英学会」に通う。英語塾は森田の家から近かった。

 ある日、卯之吉が勉強にいそしんでいると、森田からこう持ちかけられた。

 「酒を嫌いになる薬をつくった。よく売れると思うので、勉強もよいけど、この薬の発売を手伝ってくれないか」

 酒を飲まない卯之吉だが、酒にまつわる悲劇の多さは知っていた。そういう薬なら社会から歓迎されるだろうと、卯之吉は素直に首を縦に振った。

 (敬称略。構成と引用はロート製薬の社史による。次回は6月12日に掲載予定)

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