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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

クラシック音楽業界の表裏に詳しい音楽評論家・東条碩夫さんが、世界的な指揮者やソリストたちの意外な素顔を紹介します。

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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

指揮台のマッチョマン ズービン・メータ

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ロサンゼルス・フィルとの初来日でリハーサルを行うズービン・メータ=東京文化会館で1969年9月
ロサンゼルス・フィルとの初来日でリハーサルを行うズービン・メータ=東京文化会館で1969年9月

 1970年代の話らしい。ズービン・メータが指揮して、ピアノのダニエル・バレンボイムとともに(この2人は親友である)シューマンのピアノ協奏曲を演奏した時のこと。2人がステージに出てきて、バレンボイムがピアノの前に座り、椅子などを調節しようとしているさなかに、メータがオーケストラに合図を送り、勢いよく演奏を開始したため、バレンボイムは慌ててピアノに飛びついた。ところが第1楽章が終わると、今度はバレンボイムがニヤニヤしはじめ、メータが指揮棒を置いて汗を拭いているさなかにオーケストラと顔を見合わせ、さっさと第2楽章を弾きはじめたので、今度はメータが慌てて指揮棒をつかみ――。

 こういう話には大体尾ひれがつくものなので、私はメータが1988年春にイスラエル・フィルと来日した際、「週刊FM」誌のためのインタビューで、彼にこの話の真偽を確認したことがある。彼は私の質問の途中からニヤニヤしていたが、やがて楽しそうに大笑いしてこう言った。「すっかり有名な話になってしまいましたなあ、ワッハッハァ、それはイスラエルでのコンサートの時です。昔は若かったから、そんなことをよくやったもんです。今? 今はしません。私はマジメですI’m serious」。

 Seriousと言った割には、写真撮影向けに隆々たる体格を黒いシャツに包んでぴたりと決めていたにもかかわらず、足元は裸足でスリッパというラフさだった。私はその時には気づかなかったのだが、担当の記者Tさんはさすが女性だけあって、たちまちこのアンバランスないでたちに目をつけ、写真に撮って、それを雑誌に載せてしまったのである。吹き出したくなるような愛嬌(あいきょう)ある姿だった。

 メータが初来日したのは、1969年9月、当時音楽監督を務めていたロサンゼルス・フィルとの帯同公演の際である。まだ33歳の時だった。私はその時、モーツァルトの「ハフナー交響曲」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、R・シュトラウスの「英雄の生涯」という、素晴らしく豪華なプログラムの日を聴いたはずなのだが、どういうわけか、全くその時の印象が記憶に残っていない。東京文化会館の「1階L列6番」というチケットがプログラム冊子に挟みこまれているから、聴いたことは確かなのだ。

 むしろ記憶に鮮明に残っているのは、その来日の時だったか、それともその次の1972年11月の来日の時だったか、ゲネプロを取材した際のことである。メータがオーケストラを演奏させたまま、盛んに客席を動き回って音響のバランスを確かめていた光景。それに、ロサンゼルス・フィルの響きがそれはもうびっくりするほど豪華で壮麗で、輝くばかりの光を放っているように感じられたこと。いわゆる「アメリカ・ビッグ5」に入っていないオケにもかかわらず、なんというゴージャスで素晴らしい音か! アメリカのオーケストラの層の厚さを思い知らされたのは、この時が最初だった。

 これは私の勝手な印象だが、メータが最も輝かしかったのは、あのロサンゼルス・フィル時代だったのではないか、と思うのである。世界的にも、彼は人気沸騰の寵児(ちょうじ)となっていた。レコード録音活動にも恵まれ、日本でもロンドン・レコード(デッカ、当時はキングレコードから出ていた)から続々とロス・フィルとの、あるいはウィーン・フィルとのレコードがリリースされていて、ことごとく話題盤となっていたのだった。

 のち、ニューヨーク・フィルから音楽監督に招かれた際、「行かないよ。おれのロサンゼルス・フィルの方がずっと優秀なオケだもの」とつい放言してしまったものの、結局そのニューヨーク・フィルに着任し、スミマセンデシタと大汗かいて楽員に謝った、という愉快なエピソードも有名である。前出のインタビューの際に「NYフィルに移ってからはレコーディングの数も減りましたね」と訊ねると、「私にはあの頃デッカとの契約が残っていたし、NYフィルにはCBSとの契約があった。で、両方に気を使っているうちに録音ができなくなった。何のことはない、一番バカを見たのは私でしたよ」。

 そのNYフィル時代、アメリカの雑誌が彼に贈呈した称号は、「指揮台のマッチョマン」だったという。

筆者プロフィル

 東条 碩夫(とうじょう・ひろお) 早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。

ブログ「東条碩夫のコンサート日記 http://concertdiary.blog118.fc2.com」公開中。

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