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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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ロート製薬/3 得意の広告文で弟の新薬を支援=広岩近広

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広告文に優れていた山田安民の彫像=ロート製薬提供 拡大
広告文に優れていた山田安民の彫像=ロート製薬提供

 奈良県宇陀市の「薬と神話の里」で生まれ育った山田卯之吉(後に安民と改名)は1887(明治20)年ごろに上京し、両親の勧めに従って遠戚の森田源右衛門の家に身を寄せる。森田のつくった「酒を嫌いになる薬」の売り出しに協力を求められた際、卯之吉は持ち前の文才を発揮して、目を引く商品名をひねり出す。「酒不可飲(しゅふかいん)」を商標に、薬名はずばり「酒キライになる薬」であった。

 森田の積極的なセールスと相まって、「酒キライになる薬」は予想以上の売れ行きを記録した。社史は、後日談を記している。<東京で勉学中の卯之吉は、明治24年に病気療養中の母ナカへ、300円という当時での大金を送り慰めている。送金したのは、森田の仕事を手伝ってえた報酬を蓄えたものだ>

 新薬の宣伝に携わり破格の報酬を得てから、卯之吉は<実業が興味のある社会だと思えてきた>(社史)。法律家を志していた卯之吉にとって、薬業界が身近に感じられたものの、起業する気はまだなかった。実はこのとき、卯之吉より遅れて森田の家に身を寄せた弟の重吉が、薬業に乗り出す準備をしていた。このため卯之吉は<弟の重吉にやらせようと、考えついた>という。

 こういうことである。卯之吉と重吉の母ナカが生まれた奈良の藤村家には、婦人病の特効薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」の処方があった。実母の生家に伝わる婦人薬に目をつけた重吉は、重舎(じゅうしゃ)と改名して「中将湯本舗津村順天堂」(現在のツムラ)を、1893(明治26)年4月に東京で創業する。世に出た「中将湯」について、「津村順天堂七十年史」はこう述べている。

 <藤村家は代々医を業とし、かたわら、この家伝の妙薬を希望者にわけていたといわれる。「清心中将湯」または「坊さんの薬」という呼び名で、その地方の人々には馴染(なじ)み深いものであった>

短歌を詠んだ山田安民の歌碑=生家に近い奈良県宇陀市榛原高塚の八咫烏(やたがらす)神社境内で 拡大
短歌を詠んだ山田安民の歌碑=生家に近い奈良県宇陀市榛原高塚の八咫烏(やたがらす)神社境内で

 ところで次男の重舎が山田姓から津村姓を名乗ったのは、卯之吉や重舎の父安治郎の弟磯治郎が近在の津村家へ婿養子に出たことに始まる。津村磯治郎夫妻は子宝に恵まれず、次男の重舎が津村家と養子縁組を結んだ。続いて、三男の岩吉も養子に入っている。

 卯之吉は顧問的な立場で、弟の重舎が立ち上げた「中将湯本舗津村順天堂」を支援した。卯之吉らしい「助っ人」は、「名なき人にも効き目あり」の広告文の提供にあらわれていよう。前掲のツムラの社史に、次の記述が見られる。

 <最初のうち、広告文案等は、兄安民が作ることが多かったが、彼はこの方面にも一種の才能をもっていて、人目をひくものが多かった>

 続いて岩吉が「津村敬天堂」を起業し、腸胃カタルの特効薬「ヘルプ」を売り出し、こちらも成功している。安治郎夫妻の次男と三男が長男に先んじたが、後に卯之吉も参画する。こうして3兄弟は、明治の薬業界で創業者となった。

 振り返るに卯之吉の両親が、東京で売薬の研究開発中の森田源右衛門に息子たちを預けたのは、推測の域を出ないが、飛鳥時代から続く「薬の里」の磁場に引きつけられていたからだろうか。あるいは両親と無関係に、3兄弟には「薬の里」の奥深い歴史がしみ込んでいたのかもしれない。

 (敬称略。構成と引用はロート製薬の社史による。次回は6月19日に掲載予定)

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