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学術会議任命拒否

日本学術会議が推薦した新会員候補6人を菅首相が任命しなかった。極めて異例の事態の背景や問題点を追います。

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学問弾圧の先にあった地獄 父の手記読み学術会議任命拒否に危機感

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1956年当時の名古屋大教授時代の新村猛。戦後は平和運動家としても行動した=「緑の樹 新村猛追想」(95年発行、新村猛追悼集刊行委員会編)より
1956年当時の名古屋大教授時代の新村猛。戦後は平和運動家としても行動した=「緑の樹 新村猛追想」(95年発行、新村猛追悼集刊行委員会編)より

 日本学術会議の会員候補の任命を菅義偉首相が拒否した問題は、昨年10月の発覚から半年以上経過した今も、任命は行われないままで学問の自由は揺らいだ状態が続いている。歴史上度々脅かされてきた学問の自由。戦前の学問弾圧で2年近く勾留された父を持つ横浜市の新村恭(しんむら・やすし)さん(74)は「自由が侵された結果、何が起きたか」、父や社会がたどった道を思い起こし危機感を募らせる。

自由な青年時代から戦争へ

 父は仏文学者の猛(たけし)(1905~92年)。「広辞苑」を編集したことで知られる言語学者の新村出(いづる)の次男だ。旧制第三高等学校、京都帝国大(いずれも現京都大)を30年に卒業した。自ら回想した戦後の手記によると、「明治維新以後最も自由で最も良い時期」を過ごした青年の一人だったという。ところが時代は移り変わる。

 同志社大予科の教授として働いていた33年、政府が学者個人の研究を否定し、大学の自治に介入した事例とされる「滝川事件」が母校で起きた。当時の鳩山一郎文相が京都帝大教授の刑法学者、滝川幸辰(ゆきとき)の学説を「マルクス主義的」などと批判し、罷免を求めたのだ。この頃から学問や思想への弾圧は強まっていく。

 同じ年、欧州ではファシズムのナチス政権が確立するなど軍国主義や全体主義の広がりに対する新村の焦燥感は強く、翌34年、同窓の美学研究者、中井正一(まさかず)らが出していた雑誌「美・批評」(35年に「世界文化」に改題)の同人に参加。教授職も続けながら、欧州の文学者らによる反戦・反ファシズム運動を誌上で紹介していった。欧州の新聞雑誌から、そうした動向を知った新村は「敬意と強い興味」を抱き、「学問・思想の自由を守ること」を目指したという。

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