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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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ロート製薬/4 胃腸薬の開発が日本に必要=広岩近広

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商標に<シルクハットの紳士>を登場させた「胃活」のホウロウ看板=ロート製薬提供 拡大
商標に<シルクハットの紳士>を登場させた「胃活」のホウロウ看板=ロート製薬提供

 長い人生には、転機がつきものだろう。山田卯之吉にも、明確な起点があった。法律家を目指して上京した卯之吉の転機は、身を寄せた遠縁の森田源右衛門がつくった新薬「酒キライになる薬」に関わったことに始まる。さらに弟の津村重舎が1893(明治26)年4月に東京で「中将湯(ちゅうじょうとう)本舗津村順天堂」(現在のツムラ)を創業してから、広告文案を中心に側面支援するなかで、起業という大いなる決断に至った。

 そこで卯之吉は決意を胸に、名を安民(やすたみ)と改称した。起業するなら生家の屋号「山安」の「安」を、自分の名前に生かそうと決めていた。折しもこの頃、奈良の生家近くから、医師の娘増栄を妻に迎えている。増栄は、嫁ぐまで幼稚園の先生をしており、インテリの働き者で知られた。

山田安民の妻増栄は働き者で知られた=ロート製薬提供 拡大
山田安民の妻増栄は働き者で知られた=ロート製薬提供

 94年11月、長男輝郎(後のロート製薬初代社長)が生まれる。命名にあたって安民は、尊敬するイギリスの政治家ジョン・ブライト(John・Bright。1811~89年)から「輝かしい」の「輝」を息子の名前にとった。ブライトは、帝国主義政策に批判的な自由主義者で通っていた。社史は<後年、安民・輝郎へと流れる山田家の経営ヒューマニズム(人道主義)もここを源とする>と書き留めている。

 安民は、新たな人生に向けて意気込んだ。ところが病気にかかり、97年にやむなく故郷の奈良に戻る。<もともと体が丈夫でなかったのと、つぎつぎと新しい仕事に取り組み、心身ともに過労となって、胸を侵されたのだ>(社史)。安民は「薬の里」で読書にふけり、短歌を詠むなど、家族水入らずの平穏な生活を送るうちに、健康を取り戻していった。

 この当時、洋の東西を問わず胃病で早死にする人が多くみられ、日本でも食生活の変化から胃病患者が急増していた。安民は「万病のもとは胃にある」と確信し、薬効に富んだ胃腸薬の開発こそが、これからの日本に必要だとの結論に達する。新薬の種別は、ここに決着をみた。現代であれば、さしずめ社会起業家といったところで、起業と社会貢献が結びついたのである。

 安民は98年、希望と理想に燃えて故郷の「薬の里」から上京し、すでに製薬業を興していた2人の弟、重舎と岩吉を訪ねた。胃腸薬の開発と発売計画を打ち明け、賛同と協力を得る。関東地方の販売を「中将湯本舗津村順天堂」が引き受けてくれるのは、実に心強かった。

 こうして安民は、大阪市南区東清水町(現在の中央区東心斎橋筋1)で「信天堂山田安民(あんみん)薬房」を創業する。小ぢんまりとした借家ながら、熱気にあふれていた。

 <東京でいえば銀座にあたり、もともと大阪のニューモード発祥の地。(略)屋号に店主の姓名をつけたのは、明治の薬業界では山田安民薬房が初めてではないだろうか。これは経営者の姓名を示すことで、商品(売薬)の製剤、発売の責任をはっきりさせる意味があった>(社史)

 そこで新薬の名称だが、安民は「胃を活(い)かす」という意味から、名称を「胃活」に決める。また商標は、その時分の上流階級を象徴した<シルクハットの紳士>の胃のところに、「胃活」の文字をおさめた。このとき安民は、「胃活」のヒットを確信していた。

 (敬称略。構成と引用はロート製薬の社史による。次回は6月26日に掲載予定)

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