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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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核廃絶もっともっと訴えねば 急逝3日前の「遺言」 岡田恵美子さん

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岡田恵美子さん=広島市中区で2016年1月28日、山田尚弘撮影
岡田恵美子さん=広島市中区で2016年1月28日、山田尚弘撮影

 広島、長崎に原爆が投下されて76年。新型コロナウイルス禍で核廃絶に向けた活動もままならない日々が続く中、あの日を語り伝える証言者がまた一人、旅立った。8歳の時に被爆し、国内外で30年以上証言活動を続けてきた女性が4月に亡くなった。記録報道「2021夏ヒバクシャ」は、女性が亡くなる直前に発したメッセージに耳を傾けることから始めたい。

倒れる前日の訴え

  「政府に核兵器禁止条約に署名するよう促してください」。4月9日、広島市の原爆資料館。被爆体験の証言者として集まった被爆者に市が委嘱状を交付する恒例の行事後、意見交換会が終わろうとしていた時だった。証言者の一人、岡田恵美子さん(84)=広島市=が立ち上がり、「みなさん聞いてください」と切り出した。「日本は条約を批准していない。私たちは政府に働きかけなければ」。仲間約30人に署名用紙を配りながら、力強く訴えた。ところが翌10日、別の会議に出席中に突然倒れた。救急車で搬送されたが、その日のうちに亡くなった。大動脈解離だった。

 「国連で演説しているかのようだった。憤っていた」。署名用紙を受け取った証言者仲間の小倉桂子さん(83)=同=は振り返る。「こういうふうに実践しないとだめだよね」。岡田さんに声をかけて用紙を2枚受け取った。署名を集めたが、「岡田さんにもう渡せなくなってしまった」と悔やむ。

 岡田さんは8歳の時に爆心地から2・8キロの自宅で被爆し、学徒動員に出た4歳上の姉を失った。50歳の時にNPOの仲介で米国の学校や集会場を訪れ被爆体験を語ったのをきっかけに平和運動と関わるようになり、原爆資料館などで証言を続けた。「世界中の子どもたちに同じ経験をさせたくなかった」からだった。

 2009年には米ニューヨークの国連本部を訪れ、原爆の実態を伝えた。現地で居合わせたという証言者の田中稔子さん(82)=同=は「あんなに発信する意欲と行動力にあふれていた人はいない」と惜しんだ。15年にはノルウェー・オスロのノーベル平和賞授賞式に被爆者として初めて招待され現地で講演するなど、世界に向けてメッセージを発し続けた。

 そして今年1月。念願だった核兵器禁止条約が発効したが、「心からおめでとうとは言えない。何も世界は平和にはなってはいない」と日本が批准しない現状を憂い、「『被爆国』という言葉を使うのなら、先頭に立って核廃絶に向けて行動すべきだ」と怒りを込めて批判。さらに、今年8月の平和記念式典への出席に意欲を示していた国連のグテレス事務総長との面会を模索するなど、あの日から76回目の夏に向けても精力的だった。岡田さんの半生をつづった写真冊子を編集したNPO法人「ANT―Hiroshima」の渡部朋子理事長(67)は「最後の最後まで核廃絶を訴え続けた姿は、後進の励みになる」とたたえる。

 核兵器禁止条約への日本の参加を最後まで求め続けた。亡くなる3日前の取材では「被爆者はだんだんと減っていく。でも伝承はしていかなくてはいけない」と焦りもにじませながら力強く語り、「どんな形でもいい。若い人に、未来に向かって被爆体験を伝承していってもらいたい」と期待した。そして自分に言い聞かせるかのように語った言葉が、記者への遺言となった。「世界から核は無くなっていない。核廃絶をもっともっと世界に訴えないと」

孫娘がダンスに込めた決意

 その思いをしっかりと受け止めたのは…

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