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渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

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渋沢栄一を歩く

/24 帰国 尾高長七郎の死 /埼玉

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深谷市下手計の尾高家墓所にある尾高長七郎の墓。正面に「東寧尾高弘忠之墓」、側面に「渋沢栄一建石」と刻まれている。東寧は長七郎の号、弘忠は諱(いみな)=2021年1月15日、中山信撮影
深谷市下手計の尾高家墓所にある尾高長七郎の墓。正面に「東寧尾高弘忠之墓」、側面に「渋沢栄一建石」と刻まれている。東寧は長七郎の号、弘忠は諱(いみな)=2021年1月15日、中山信撮影

 幕末、明治を縦横に駆けた清水卯三郎の人生から、渋沢栄一らに話を戻す。

     ◇

 徳川昭武ら旧幕府使節団は明治元(1868)年11月3日、横浜港に帰着した。元号は明治と改められ、江戸の名称も「東京」に変わっていた。

 1年10カ月の間に、栄一らの置かれた立場は大きく変わっていた。自伝「雨夜譚(あまよがたり)」で栄一は「横浜に着した時にもその取締(とりしま)りの官吏からいろいろ身分を尋問せられ、見るもの聞くもの不愉快の媒(なかだち)ならざるはなしという有様(ありさま)」と振り返っている。

 水戸藩主に就任する昭武は直ちに東京へ向かった。栄一は、使節団で親しくなった杉浦譲に温かく迎えられ、横浜に一泊した。

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