- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

「記憶を風化させてはいけない」。戦争の話を記事にする度に私(記者)はそう書いてきた。だが、そんな自分自身が家族の戦争体験に耳を傾けてこなかった。残された時間は少ない。戦後76年の夏、太平洋戦争末期の沖縄戦を生き抜いた2人の「おばあ(祖母)」の記憶に初めて向き合った。
6月中旬、沖縄県宜野湾市出身で現在は北九州市で勤務する私は、実家にいる父方のおばあ、宮城ヒロ子(83)=旧姓・伊波(いは)=を訪ねた。おばあは宜野湾市嘉数(かかず)の集落に7人きょうだいの末っ子として生まれ、約9万4000人(推定)の一般住民が激しい攻撃に巻き込まれて命を落とした1945年の沖縄戦を体験した。当時7歳だった。
だが、いざ話を聞こうとしても、戦時は小学校低学年に当たる年齢だったおばあの記憶は断片的。細かい話を聞いても「分からんよ」と繰り返した。もっと早くに聞くべきだった。そう悔やんだ。
思案し、沖縄戦でおばあと共に避難した姉、石川ハツ子(89)を訪ね、「76年前」を一緒にたどることにした。当時13歳で、おばあのことを「フンデー(わがまま)で、戦時中の食料調達は全部、私の役目だった」と思い出す姉の話に、おばあは少しずつ当時を思い起こしていった。
◇ ◇
米軍は45年4月1日に沖縄本島中部に上陸。数日後には集落近くまでに迫り、おばあは50代の父、40代の母、きょうだい、親戚の計18人で避難を始めた。「戦(いくさ)がここまで来ているよ」。そう叫んでおばあたちを追い抜いていった中年男性が、日本軍が設置した地雷を踏んで亡くなったのを目撃。それが初めて目の当たりにした人の死だった。
約10カ所のガマ(自然の洞窟)や壕(ごう)を転々とした。空襲で陥没した地面にたまった雨水を飲み、カタツムリを食べて飢えをしのいだ。昼は隠れ、…
この記事は有料記事です。
残り1054文字(全文1816文字)
時系列で見る
-
障害者たちの沖縄戦 教え子を避難させようとした全盲校長の悲痛
458日前 -
77年前の激戦地に慶応の万年筆 遺骨収容で発見 展示し情報求む
459日前 -
「平和の礎」刻銘者名の読み上げ始まる 24万人分、慰霊の日まで
465日前 -
「平和の礎」刻銘者名の読み上げ始まる 24万人分、慰霊の日まで
465日前 -
沖縄慰霊の日、式典に3年ぶりに岸田首相を招待 就任後初
479日前 -
復帰50年の群像・沖縄の「いま」を歩く 南風原文化センター・平良次子館長 母と織り成す平和への願い
687日前注目の連載 -
沖縄戦の実態、映画で 29日、川西で上映 監督の講演も /兵庫
762日前 -
日本化が強まる戦時下、独自の英語教育守った台高
793日前 -
投降し生きた3姉妹 同級生の記憶に涙 おばあとたどる沖縄戦の記憶
794日前 -
父を亡くし、銃撃に身を潜めた76年前 おばあとたどる沖縄戦の記憶
795日前 -
終戦から76年、どうなった? 駐留米軍、今も7割集中
809日前 -
戦後の沖縄はどうなった? 4月28日は「屈辱の日」に
809日前 -
生き残った住民、どうなった? 収容中に基地建設進む
811日前 -
生き残った住民、収容所に28万人 戦後、元の住居に戻れぬ人も
811日前 -
10代の学生2000人、戦場に動員 戦闘や医療…半数が犠牲
812日前 -
10代学徒1000人犠牲、なぜ? 動員され、日本軍と行動
812日前 -
「敵の捕虜になるのは恥」集団自決の1キロ先では…
816日前 -
自決前に司令官「最後まで戦え」 終結知らず隠れ続けた住民も
816日前 -
避難先に軍 逃げ場失い、9万4000人もの住民が巻き添えに
820日前