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沖縄戦

「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦から76年。約3カ月に及んだ地上戦は住民を巻き込み、日米合わせて計約20万人が犠牲となった。

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日本化が強まる戦時下、独自の英語教育守った台高

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尋常科の級友たちと写した一枚。左から山内隆保さん、八田泰雄さん、江熊昭次さん、亀山忠典さん、川平朝清さん、出水清さん、増満久男さん=川平朝清さん提供
尋常科の級友たちと写した一枚。左から山内隆保さん、八田泰雄さん、江熊昭次さん、亀山忠典さん、川平朝清さん、出水清さん、増満久男さん=川平朝清さん提供

 川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(93)の人生に大きな影響を及ぼした英語。学び始めたのは1940年、台北高等学校尋常科だ。1年生時の担任でもあった英語の山地清教授に1年間、正確な発音を徹底的にたたき込まれた。朝清さんは「おかげで英語の発音記号を見て発音するくせがつきましたね」と語る。

正確な発音をたたき込む英語の授業

 同級生の吉見吉昭さん(93)もその一人だ。「実生活で使うことがまれな『I am a boy』といった人工英語の文章を日本語に訳すといったやり方ではなく、英語を正しく発音する訓練から始めました。発音記号を覚えたので英語の辞書を使うとき、必ず声に出してみなければ満足できないという良い習慣ができました」と話す。

 熱心に英語を学んでいたが、2人で試験前日にたこ揚げに行って、赤点を取ったこともあった。朝清さんは「その2人が後に米国に留学したのですから不思議です」と笑う。吉見さんは戦後、ノースウエスタン大大学院などで学んで博士号を取得。カーネギー工科大(当時)助教授や東京工業大教授などを務めた。

 台高の英語には外国人の教師もいた。米国人のジョージ・カー氏は、カール先生と呼ばれていた。朝清さんは、カール先生の2年生の授業をのぞいた。黒板に亀を描いてUP、DOWN……などの説明をしていた。授業後、先生は教室から出てきて、朝清さんの頭をコツンとたたき、気さくに話しかけたそうだ。

 日米対立が深まり、カール先生は日本統治下の台湾を去ることになった。送別会が開かれ、図画教師の塩月桃甫(とうほ)氏が扇子に絵を描いて贈った。その扇子は戦後、カール先生から朝清さんを経て台高の後身である台湾師範大に寄贈された。後任はアランデル・デル・レ氏。日本を含む枢軸国のイタリアの領事で、英国で学位を取った人だった。

 41年12月8日、太平洋戦争に突入した。2年生の朝清さんは制服のズボンのすね部分にゲートルを巻くよう指導された。

「敵性語こそ学ぶべき」と将校に反論した教授

 開戦後、台高の配属将校が「敵性語の英語を教えるのはいかがなものか」と英語の授業の中止を主張した。中学校以上の教育機関には、生徒らに軍事知識を与え、軍事教練を実施するため陸軍将校が配置されていた。敵性語は法的に禁止されたわけではなかったが、敵国の米英の文化や英語を社会から排除しようとする風潮が広がった。台湾も例外ではなかった。

 これに異を唱えたのが英語の中野賢作教授だ。中野教授は将校に「日本はどこを占領しようとしているのか」と問いただした。将校が「シンガポールにフィリピン……南方だ」と答えると、中野教授は「その地で使われているのは英語だ。ここ(台高)は指導的な人材を育てるところだ。むしろ敵性語は大いに学ぶべきだ。よって英語教育を強化する」と反論した。

 他校で英語の授業が減っていく中、台高では英語が強化され、尋常科では英語が週8時間に増えた。まさに異例だった。

 中野教授は授業で、英国留学時に買ったホームスパンという英国毛織りのネクタイを示し「こういう丈夫で、いい物を作る国を侮ってはいけない」と語った。その冷静な言葉が朝清さんに強く印象を残した。

戦争で皇民化運動…

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