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渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

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渋沢栄一を歩く

/25 平九郞の自刃 武士より武士らしく /埼玉

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渋沢平九郎肖像(渋沢史料館所蔵)=同館提供
渋沢平九郎肖像(渋沢史料館所蔵)=同館提供

 尾高惇忠の末弟で渋沢栄一の養子、渋沢平九郎(1847~68年)は、過酷な運命に翻弄(ほんろう)される。

     ◇

 徳川慶喜の名誉回復を期して彰義隊を結成し、内部対立で分かれた渋沢喜作(当時の名は成一郎)は、惇忠、平九郎らと慶応4(1868)年閏(うるう)4月、振武軍(しんぶぐん)を組織する。上野寛永寺の上野戦争(5月15日)で彰義隊が新政府軍に敗れると、敗残兵の一部も加わって田無から飯能(現飯能市)へと陣を移した。追撃する新政府軍と振武軍など旧幕府軍は、5月23日明け方に飯能で衝突し(飯能戦争)、大砲など銃火器と兵力に勝る新政府軍の前に旧幕府軍は半日で壊滅、四散した。

 飯能市立博物館によると、散り散りとなった旧幕府軍側兵士の多くは飯能の西から北に広がる山中に逃げ込んだ。街道には敗残兵掃討の新政府軍兵士も配備されていたが、喜作と惇忠は地域住民の手助けなどもあって包囲網をかいくぐり、伊香保(現群馬県渋川市)に逃れた。

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