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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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12歳あの日から看護に奔走 「救護被爆」やっと認定 2人に手帳

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被爆者健康手帳を手にほっとした表情を見せる泉吏子さん=広島市安佐北区で2021年7月29日午後3時55分、木原真希撮影
被爆者健康手帳を手にほっとした表情を見せる泉吏子さん=広島市安佐北区で2021年7月29日午後3時55分、木原真希撮影

 1945年8月6日に広島へ原子爆弾が投下された後、爆心地から約60キロ離れた広島県十日市町(現三次市)で被爆者の救護活動に当たった泉吏子(さとこ)さん(88)=広島市安佐北区=ら2人が今年、「救護被爆」をしたとして被爆者健康手帳を交付されていたことが、泉さんらへの取材で判明した。泉さんは25年前から3度にわたって市に手帳交付を申請してきたが認められておらず、被爆者団体は「非常に珍しいケースだ」としている。

 泉さんの証言によると、原爆投下当時は地元の女学校に通う12歳。8月6日朝は登校日で、校庭で草抜きをしていると遠くで「ピカッ」と光った。この時は何が起きたか分からなかった。午後に友人と帰宅途中、最寄りの備後十日市駅(現三次駅)で、全身を包帯で巻かれ血がにじんでいる人たちが列車から次々と降りてきた。皮膚が垂れ下がった人の手を握るなどして、救護所となった近くの国民学校まで何人か連れて行ったという。

 学校の講堂には200人以上が収容されていた。助けを求める人に四方八方から服を引っ張られながら、大人の指示を受けて傷口に消毒をしたり、包帯を巻いたり看護をした。8月末まで連日、友人とともに足を運んで救護活動をした。

 戦後51年の63歳の時、救護活動に携わった人も手帳を申請できると知った。…

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