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習志野原今昔物語

習志野原とその周辺の歴史と今、「今昔物語」を、千葉県習志野市文化財審議会会長の山岸良二氏とともに紹介していきます。

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習志野原今昔物語

/6 ロシア兵捕虜の収容所建設 最大1万5000人が生活 住民と衣服や酒を交換 /千葉

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習志野俘虜収容所でのロシア兵捕虜=1905年撮影
習志野俘虜収容所でのロシア兵捕虜=1905年撮影

 1904年に始まった日露戦争は、秋山好古(よしふる)率いる習志野騎兵第一旅団の活躍などもあり、翌年に日本の勝利で終結した。この戦争で日本は、各戦闘で負傷や降伏したロシア兵の取り扱い、つまり捕虜(当時は「俘虜(ふりょ)」と呼ばれた)をどう収容するかという新たな問題に直面した。

 1899年にオランダで開かれたハーグ平和会議で、戦時国際法「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)」が制定され、捕虜を人道的に扱うことが明記され、日本も批准していた。

 両軍に多数の戦死負傷者が出た遼東半島の旅順攻略戦では、激戦となった二○三高地を日本軍が占領した後、ロシア軍の旅順要塞守備司令官ステッセルが降伏を申し出た。これに先立つ蓋平、南山の戦いでも多くのロシア兵が捕虜となっている中、さらに4万3000人以上が捕虜に加わった。

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