終戦の日に捕虜を処刑した日本軍の犯罪 森友問題に通じる忖度の構図

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旧真田山陸軍墓地を訪れる吉岡武さん。右奥の仮設小屋の周辺で、米軍捕虜5人が処刑・埋葬された=大阪市天王寺区で2021年7月30日午後1時20分ごろ、高橋昌紀撮影
旧真田山陸軍墓地を訪れる吉岡武さん。右奥の仮設小屋の周辺で、米軍捕虜5人が処刑・埋葬された=大阪市天王寺区で2021年7月30日午後1時20分ごろ、高橋昌紀撮影

 終戦の日、米軍の捕虜5人が秘密裏に処刑された。昭和天皇が「玉音放送」で太平洋戦争の終わりを告げた後、大阪市で起きたことだ。ポツダム宣言による降伏を受け入れたにもかかわらず、実行された日本軍の戦争犯罪。なぜ、戦争が終わったのに捕虜を殺さなければいけなかったのか。実態を取材すると、現代の日本政治でも問題となっている権力者への「忖度(そんたく)」が背景に見えてきた。【高橋昌紀】

陸軍の墓地が処刑場に

 「最初の2人は斬首。日本刀を振るった手がしびれたのか、残りの3人は銃殺にしたそうです」

 大阪城天守閣から南へ1・5キロの旧真田山(さなだやま)陸軍墓地(大阪市天王寺区)。墓地を研究するNPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の副理事長、吉岡武さん(83)がつぶやいた。墓地は1871(明治4)年に造られ、約1万5000平方メートルの敷地に5100基以上の将校や兵士らの墓碑が並ぶ。この場所で1945年8月15日、日本軍の軍事警察をつかさどる部署の一つ、中部憲兵隊(大阪市)の憲兵らによって米軍の捕虜5人が処刑されたことはあまり知られていない。

 憲兵の供述を記録した米国立公文書館の資料や民間団体の研究によると、実態はこうだ。捕虜5人は、京都府や奈良県などに墜落した米軍の爆撃機や戦闘機の搭乗員。大阪城に隣接する中部憲兵隊の司令部留置場(現在の大阪府警本部付近)に捕らわれていた。

憲兵「前のことがばれる」と決断

 76年前の8月15日午前11時半ごろ、20代後半の下士官が将校に呼ばれ、5人の処刑を命じられた。そして正午にラジオで玉音放送が流れる。下士官は「処刑する必要はないだろう」と周囲に発言した。しかし、他の憲兵たちは「生かしておいたら前のことがばれる。やらねばならぬ」などと主張した。中部憲兵隊は、それまでにも適正な手続きを踏まずに捕虜を処刑している。「前のこと」とはそのことで、5人は最後に残った捕虜だった。下士官は「命令とあらばやむを得ん」と決意した。

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