特集

広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

特集一覧

終わらなかった「戦争」 被爆者の遺体解剖、元看護生徒が初証言

  • ブックマーク
  • メール
  • 印刷
看護生徒として手伝った被爆者の病理解剖について語る梶川道子さん=鳥取市で2021年8月3日午後0時2分、平川哲也撮影
看護生徒として手伝った被爆者の病理解剖について語る梶川道子さん=鳥取市で2021年8月3日午後0時2分、平川哲也撮影

 1945年8月15日に太平洋戦争の終結を知らされても、鳥取市に住む梶川道子さん(92)の「戦争」は終わらなかった。当時16歳の看護生徒は直後に広島入りし、被爆した遺体の病理解剖を手伝った。米軍による同6日の原爆投下から4カ月以内に行われた被爆者の解剖は100例を超えるが、看護生徒の協力を伝える資料は少ない。「話しておかなければ、忘れられてしまう」。15日の終戦の日を前に、初めて詳細を語った。

トラックの荷台に乗り、焼け野原へ

 梶川さんが被爆者健康手帳を取る際に入手した、文書の写し。日本赤十字社鳥取支部の用箋には45年8月19日付の立案で「救護班派遣伺」とあり、別紙「鳥取第二班編成名簿」には看護婦長ら21人の中に「小林道子」の名前が見える。梶川さんの旧姓だ。「見るたびによみがえる。解剖室は焼き場に近く、常に死臭が漂っていた」。76年前のあの日を振り返った。

 玉音放送がラジオで流れた45年8月15日、鳥取赤十字病院(鳥取市)に併設された養成所で学ぶ看護師の卵だった。「国のため、人のために働きなさい」。父の言葉を胸に、郷里の鳥取県勝部村(現鳥取市)を離れて1年余り。病院の廊下で終戦を知った梶川さんは「よかった」と思った。戦傷病者が減るとも考えた。だが、広島への派遣要請は来る。「人のために働く」。その使命感を再びたぎらせた。

 8月20日朝、汽車で鳥取をたち、その夜に広島へ到着。明くる朝にトラックの荷台に乗り、一面の焼け野原に延びる道を進んだ。

 その行き先を梶川さんは陸軍少年船舶部隊と記憶するが、「広島原爆戦…

この記事は有料記事です。

残り1466文字(全文2126文字)

【広島・長崎原爆】

時系列で見る

次に読みたい

あわせて読みたい

この記事の特集・連載
すべて見る
この記事の筆者
すべて見る

注目の特集