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昭和天皇の「聖断」は「英断」だったのか 終戦の日に考えた

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宮内省庁舎の仮宮殿で政務の合間、新聞を読む昭和天皇=1946年撮影
宮内省庁舎の仮宮殿で政務の合間、新聞を読む昭和天皇=1946年撮影

 1945年8月15日正午。連合国によるポツダム宣言受諾を国民に伝える玉音放送がラジオから流れた。受諾の選択の背景には昭和天皇の決断、いわゆる「聖断」があったのはよく知られている。政府内の対立や軍部の強硬姿勢などにより終戦の決定ができなかったため、「聖断」がなければどうなっていたかわからない。天皇が極めて重要な役割を果たしたのは間違いないが、いくつかの疑問が残る。「なぜ国力で圧倒的に勝るアメリカと戦争を始めたのか」「なぜもっと早くやめられなかったのか」などだ。終戦の日のきょう、「聖断」の意味を再考してみたい。【栗原俊雄/学芸部】

日本政府の「終戦構想」

 開戦前から日本政府は、国力ではるかに勝るアメリカを軍事的に降伏させることはできないと思っていた。そこで、こんな「終戦構想」を持っていた。

 開戦直前の41年11月15日、首相ら政府の首脳と陸海軍の軍事トップによる「大本営政府連絡会議」で採用された。すなわち①同盟国であるナチス・ドイツがイギリスを屈服させる②その結果、イギリスの同盟国であるアメリカが戦意をなくす。そこで講和をする――というものだ。

 41年12月8日、日本軍の奇襲で太平洋戦争は始まる。陸軍が英領のマレー半島に上陸し、海軍はハワイ真珠湾を襲って米太平洋艦隊を壊滅させた。以後、日本軍は序盤で華々しい戦果を上げる。イギリスが東アジアの植民地支配の拠点としていたシンガポールを占領した。フィリピンからは米軍を、インドネシアからはオランダ軍を追い落とした。南方を早々に占領し、石油などの物資を確保して対米英などとの長期戦に備える――。「構想」は実現するかにみえた。

 欧州ではドイツが39年の開戦以降、フランスやオランダを占領し、一時は欧州の覇者になる勢いだった。しかし海軍力が貧弱で、英本土上陸は現実味がなかった(事実、実現しなかった)。また、仮にドイツがイギリスを降伏させたとしても、アメリカが戦意喪失して手を引くという保証はどこにもなかった。大日本帝国の為政者たちは願望に空想を載せ、蜃気楼(しんきろう)のような、国民の生命をばくちにかけるような状態だったといえる。

 米軍が態勢を整え反撃に出ると、日本軍はたちまち劣勢に。フィリピンは米軍に奪還され、サイパンなどのマリアナ諸島も奪われた。同諸島の基地を飛び立った米軍の戦略爆撃機B29は無差別爆撃で日本本土を焼き尽くした。45年3月、東京都心から南に1300キロ弱に位置する硫黄島が米軍に奪われたが、米戦闘機なら数時間で東京に到着する距離。同年6月には沖縄が占領され、敗戦はもはや時間の問題だった。

2度の「聖断」とは

 そんな折、同年7月26日にアメリカとイギリス、中国によって発せられたのがポツダム宣言だ。「日本国国民を欺まんし、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去」「戦争犯罪人の処罰と、民主主義的傾向の復活強化の障がいの除去」などの文言が並んでいた。

 日本政府は当初これを黙殺していた。軍部はあくまでも強硬姿勢。だがこれ以上続けるべきではないという認識が政府内で共有されつつあり、できるだけ有利な条件での和平を模索するようになった。その一環が、元首相、近衛文麿を天皇の特使としてソ連へ派遣することだ。背景には日ソ中立条約があり、ソ連は対ドイツ戦での勝利が確実で国際的な発言力を増していた。日本はソ連を利用し、米英など連合国との和平を進めようとしていたのだ。

 しかし実際は、既…

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