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沖縄、台湾をつむぐ

琉球王に仕えた名家・川平家。琉球処分から日本統治下の台湾、戦後の沖縄へ。激動の時代をたどり、沖縄と台湾を見つめます。

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沖縄、台湾をつむぐ

戦争末期、訓練に明け暮れた日々 台高の教室、学生寮が兵舎に

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台北高等学校の校舎。戦時下では教室も学生寮も兵営に使われた=台湾文化部蔵
台北高等学校の校舎。戦時下では教室も学生寮も兵営に使われた=台湾文化部蔵

 太平洋戦争末期の1945年3月、台北高等学校の生徒たちは「警備召集」の名目で陸軍2等兵になった。米軍が日本本土への侵攻を前に、台湾か沖縄に上陸すると予測していた日本は、台湾と沖縄の防衛をいっそう強化。このため台湾では旧制中学3年生以上の男子生徒が召集された。

 台高では高等科3年生が既に繰り上げ卒業しており、新1、2年生と高等科の下の尋常科4年生、若い教師も召集された。新1年生は3月に繰り上げ入学となり、すぐに入隊した。後に尋常科3年生も召集されたという。兵営は教室や学生寮が使われ、ほぼ学校丸ごと動員された。新2年生の川平朝清(かびらちょうせい)さん(93)は17歳だった。

 台高生が所属したのが第13862部隊(大隊)の第1中隊と第5中隊。このほか一部の体格の良い者は重機関銃中隊に配属された。配属は原則、学級ごとにまとまっていた。朝清さんら理科乙類(第1外国語がドイツ語)の生徒は主に第1中隊の第2小隊だった。

 小隊はさらに4分隊に分かれていた。朝清さんが所属した第1分隊は理乙1、2年生ら11人で、このうち2人が本島人と呼ばれた台湾人だった。蕭柳青(しょうりゅうせい)さん(94)は「学校のみんなで兵隊に行くのだから当然という意識で、特に抵抗感もなかった」と振り返る。

 朝5時、ラッパの音と共に教室で起床し、一日中訓練に明け暮れ、夜9時、就寝ラッパで床に就いた。その後、台北近郊の八里庄に移動した。米軍が北部の海岸から上陸してくると想定されたので、侵攻に備えるためだった。蕭さんは「海岸で戦車壕(ごう)を掘った。戦車を落とすための穴だったけど、そんなに深く掘っていなかった」と話す。

 やがて部隊は台北北郊に移動し、七星山から大屯山にかけて展開した。

 第2小隊は「竹仔湖(ちくしこ)」の峠に配置されることになり、朝清さんら約10人が先に現地で兵舎を建てた。汗まみれで竹で柱や床を作り、ススキで屋根をふいた。朝清さんは「周りにススキが群生していました。屋根にも床にもたっぷりススキを敷き詰めたので雨漏りしませんでしたね」と語る。兵舎は小隊約40人がすし詰め状態となり…

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