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渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

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渋沢栄一を歩く

/27 新政府へ仕官 大隈重信の雄弁 /埼玉

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1910(明治43)年ごろ、外国からの要人(中央)と並ぶ大隈重信(左)と渋沢栄一=早稲田大学大学史資料センター提供
1910(明治43)年ごろ、外国からの要人(中央)と並ぶ大隈重信(左)と渋沢栄一=早稲田大学大学史資料センター提供

 明治新政府から渋沢栄一に上京を命ずる召状が届いたのは、明治2(1869)年10月のことだった。

     ◇

 明治新政府は天皇を中心とする中央集権国家を目指した。最高行政機関は大化の改新(645年)の律令政治にならって太政官(だじょうかん)とされた。召状は、太政官から静岡藩庁を通じて届けられた。

 徳川慶喜がいる静岡で常平倉(商法会所から改称)の経営に専念しようと考えていた栄一は、新政府から上京を求められて困惑した。静岡藩の実権を握っていた大久保一翁(いちおう)に、藩庁から出京辞退を願い出られないかと内々に相談したが、「もし藩庁からそのような請願をしたら、静岡藩は朝廷の意向に反して有用な人材を隠蔽(いんぺい)していると疑われ、藩主に迷惑が及ぶ。ともかく上京するように」と断られてしまった。

 翌11月、太政官に出頭した栄一は、民部省租(そ)税正(ぜいのかみ)という辞令書を手渡される。渋沢史料館(東京都北区)などによると、民部省は国内行政を幅広く管轄した省庁で、租税正は税を担当する租税司(そぜいし)の長官にあたり、現在で言えば財務省主税局長に相当するポスト。この時29歳で旧幕臣だった栄一の登用は抜擢(ばってき)人事といってよかった。しかし栄一自身は、拝命はしたものの、省内に1人の人脈も…

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