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没後400年 織田有楽斎/下 自由かつ優しい「有楽流茶道」=正伝永源院副住職・真神啓仁

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茶の湯を愛した織田有楽斎手びねりと伝わる茶碗(ちゃわん)「有楽」=筆者撮影
茶の湯を愛した織田有楽斎手びねりと伝わる茶碗(ちゃわん)「有楽」=筆者撮影

 織田有楽斎は信長の13歳年の離れた実弟である。幼名は源吾。性格は兄の信長とは正反対で温厚であったとされている。兄信長が本能寺の変で命を絶った頃、有楽斎は側近として近くの妙覚寺にいて逃亡を図ったとされることもあるが、同時代の史料にそうした記述はない。何としても織田家の血脈を残さなければいけないという思いの果てに、決死の覚悟で身を守ったというのが真実に違いない。穏やかな性格ではあるが、意志の強さがここにみられる。時の権力者の豊臣秀吉、徳川家康にも仕えるが、両人から一目置かれて混乱の世を生き抜いていった。特に家康には目をかけられ、現在の東京・有楽町の辺りに屋敷を拝領した由来によりその地名が付けられたという説も残っている。

 剃髪(ていはつ)して有楽斎と号し、後年に京都・建仁寺塔頭(たっちゅう)の正伝(しょうでん)院に隠棲(いんせい)した。正伝院は鎌倉時代中期に普覚義翁(ふかくぎおう)禅師によって創建されたが2代目以降は荒廃し、有楽斎はそれを再興。後に国宝となる名席「如庵(じょあん)」を創り出し、茶道三昧(ざんまい)の日々を過ごした。当時茶の隆盛を極めていた大徳寺に籍を置かず、なぜ建仁寺の塔頭に身を寄せたのか。それは…

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