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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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廣島からヒロシマへ

原爆ドームの隣で生まれた83歳「番人」 記憶を歴史に刻む証言

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原爆ドームの敷地内にあるかつての生家跡に腰を下ろして話す映像作家の田辺雅章さん=広島市中区で2021年6月25日、山田尚弘撮影
原爆ドームの敷地内にあるかつての生家跡に腰を下ろして話す映像作家の田辺雅章さん=広島市中区で2021年6月25日、山田尚弘撮影

 自称「原爆ドームの番人」。CG(コンピューターグラフィックス)で被爆前の街並みを再現する記録映画製作に長年携わってきた広島市の映像作家、田辺雅章さん(83)は世界遺産となった建物の隣で生まれ育ち、長じてからは表現者としてヒロシマの象徴に向き合ってきた。被爆76年がたち「廣島」と記された時代の営みを記憶する人が少なくなった今、世界遺産登録から間もなく四半世紀となるドームを田辺さんと歩いた。

 ドームをぐるりと楕円(だえん)に囲む黒い金属製の柵。管理する広島市の許可を得て機械警備を解除してもらい、南側の扉から敷地に入る。そこで田辺さんは立ち止まり、黙とうした。

世界遺産の地に眠る母と弟

 世界遺産の敷地として普段は立ち入ることのできない場所に、かつて田辺家があった。ドームは原爆の爆心地から北西に約160メートル。1945年8月6日、山口県に疎開していた田辺さんは原爆の直撃を免れたが、直前に自宅に戻っていた母と弟の遺骨は今も見つかっていない。「この場所のどこかに眠っているのでしょう」。見やった先には、戦後に植えられたエノキの巨樹が緑の葉を茂らせていた。

 「ドームの横に生家があったんじゃない。私の家の隣にドームが建ったんです」。田辺家は広島藩を治めた浅野家が紀州から移ってきた際に随伴したと聞いて育った。家系図など由来を知る資料は原爆で焼失してしまったが、江戸時代から続く旧家だったという。元安川に面して建っていた藩政時代の米蔵跡に15(大正4)年、県産品の販路拡大など地域振興の拠点施設として「広島県物産陳列館」が完成したのが現在の原爆ドームだ。

「大きなびょうぶのように見えた」

 田辺さんが生まれた37(昭和12)年当時は改称されて「広島県産業奨励館」と呼ばれていた。田辺さんはドーム南側の壁を指さした。「あの壁の延長線上に私の家の離れ座敷があり、その2階で私は生まれました」。…

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