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あの時、浅田真央にかけた言葉とは 名伯楽が語る指導の極意

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フィギュアスケートのコーチとして浅田真央さんらを育てた佐藤信夫さん=横浜市港北区で2021年9月15日、大西岳彦撮影
フィギュアスケートのコーチとして浅田真央さんらを育てた佐藤信夫さん=横浜市港北区で2021年9月15日、大西岳彦撮影

 フィギュアスケートの取材を始めて2年。担当記者を名乗るならば、開幕まで130日あまりと迫る北京冬季五輪の前に、あの名伯楽を訪ねてみたかった。伝説となった7年前の教え子の演技について、そして史上初の4回転半ジャンプに挑戦を続ける王者について。聞きたいことは山ほどあった。はやる気持ちを抑えて新横浜へと向かった。

 「渡っちゃいましょうか」。葉の色が変わり始めた9月中旬。横浜市内で待ち合わせて仕事場に向かう途中、ふいに駆け出し、横断歩道を渡った。フィギュアスケートコーチの佐藤信夫さん(79)。多くの五輪選手らを育て世界殿堂入りした「レジェンド」らしい軽やかなステップだった。

 新横浜スケートセンターを拠点に活動する佐藤さんは早い日は午前5時にリンクに立ち、遅い日は午後10時まで指導に明け暮れる。過酷にも思えるが、佐藤さんは「だって、スケートしかできないから」。休憩時間などに短い仮眠を取りながら一日の大半をここで過ごす。

「嫌われ者になる」と決断

 1994年世界選手権を制した娘の有香さん(48)をはじめ、五輪2大会連続代表の村主章枝さん(40)ら多くのトップスケーターを育てた佐藤さんだが、大学時代で競技をやめるつもりだった。関西大を経て入社した国土計画(当時)でも「サラリーマンになりたい」と社長に直談判したこともあったというが、全日本選手権で勝ち続ける選手を放っておくはずがない。「ごねていたんですが、社長に叱られましてね」。現役引退後、指導者に転身。気が付けば人生の大半をスケートにささげることになった。

 真っ先に聞いたのが、25日で31歳になる2010年バンクーバー冬季五輪銀メダルの浅田真央さんのことだ。最初は断ったという浅田さんの指導を始めたのは同年9月。「真央ちゃん」と親しまれ、国民から熱狂的に応援された浅田さんは当時、既に世界選手権2回優勝を誇る実績十分のスケーターだった。指導を引き受けることに怖さはなかったのだろうか。

 佐藤さんは「大きな責任という思いはありましたね」と素直な思いを語る。約半世紀指導し続け、自らの教えに信念を持つ佐藤さんをもってしても、浅田さんは特別だった。

 「自分の中でこうだ、という指導の考え方があっても、やはり周囲の期待などいろいろ考えると『これで良いのかな?』と。そうした迷いはずっとありました。それでも心のどこかで譲れなかったんでしょうね。彼女の滑りを『完成』させるには嫌われ者になるしかないと思いました。一番つらいところでしたね」

大切なのは「待つ勇気」

 浅田さんは当時、現役の女子で唯一、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳べるスケーターだったが、代名詞のジャンプではなく、スケーティング技術の基礎を徹底的に指導した。一方で、「練習の虫」と評され、完璧主義だった浅田さんに休養の大切さを説いた苦労話はいまも語り草だ。

 ふたりの思いが演技として結実したのが、14年ソチ冬季五輪だった。ショートプログラム(SP)で、トリプルアクセルで転倒するなど精彩を欠いて16位と出遅れたが、翌日のフリーは出場選手で唯一、3回転ジャンプを計8回披露し、6位まで順位を押し上げた。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を滑りきる姿は今もなお記憶に新しい。

 あの時、佐藤さんはどのような思いで演技を見ていたのだろうか。佐藤さんは遠くを見つめるように口を開いた。

 「SP後、『失敗…

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