- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

2歳で別れた父の記憶はない。宮城県に住む佐藤勉さん(80)が、遠い南洋のマーシャル諸島で戦死した父を知るきっかけとなったのは、かの地でつづられた日記だった。戦地から日記を持ち帰ってくれた父の戦友、原田豊秋さんの家族にお礼を言いたい――。そう願い続けてきた佐藤さんが9月、山梨県で原田さんの家族に初めて会うことができた。日記をめぐる二つの家族の物語をひもときたい。
「ああ、覚えています」。佐藤さんが大切にしている黒い小さな手帳を手渡すと、甲府市に住む原田さんの長女、鎌崎徳子さん(89)は目を細めた。14歳のころ、復員した父から「頼まれて持って帰ってきたんだよ」と見せられた記憶がある。<セメテ カドヤノ 天丼デモタベタイ。クサレタ タクアンデモ良ロシイ>と書かれた部分は特に印象に残っていた。「よっぽどおなかがすいていたんだよね」と思いをはせた。
日記を書いた佐藤さんの父、冨五郎さんは、戦況の悪化により37歳という年齢で召集された。若い兵士が多い中、同じ1906年生まれだった原田さんとは「同年兵」として友情を深めた。「内地へは可愛い妻子を残してあるんだもの、ちょっと死ねないね」「日本は必ず勝つよ、勝てば帰れる。その日までお互いにがんばろうぜ」。原田さんが戦後、佐藤家へ送った手紙によると、2人はそんな言葉をかけて励まし合ったという。
兵士たちが闘ったのは飢えだった。44年2月に米軍によってマーシャルが陥落した後、補給路を断たれた日本兵は小さな島々で自給自足を強いられた。腕の良い刀鍛冶だったという原田さん…
この記事は有料記事です。
残り1708文字(全文2366文字)