核拡散へ「闇市場」主導 「危険な男」カーン博士、死後も世界に君臨
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パキスタンの「核開発の父」と呼ばれたアブドルカディル・カーン博士(85)が10日、首都イスラマバードの病院で死去した。1970年代半ばからパキスタンの核武装に取り組んで成功させたほか、80年代以降は、イラン、リビア、北朝鮮にウラン濃縮技術を秘密裏に販売する「核の闇市場」を主宰、核技術を世界にばらまいた。米中央情報局(CIA)は、2001年9月に米同時多発テロ事件を起こした国際テロ組織アルカイダのビンラディン容疑者とともに「世界で最も危険な男」と呼んだ。
対インド紛争、パキスタンの開発促す
パキスタンが核武装を急いだのは、隣国インドの存在が大きい。47年の独立後、両国はカシミール地方の領有権をめぐり紛争を続け、74年5月にインドが初めての核実験に踏み切った。追い込まれた形のパキスタンのブット首相は「草を食べてでも」核武装を急ぐよう科学者に要請。当初はプルトニウム(長崎)型原爆の開発を目指したが、フランスからの原子炉調達に米国から横やりが入り、計画は難航した。
そうした中、英独オランダ3カ国が設立したウラン濃縮企業「ウレンコ」の傘下企業でエンジニアとして働いていたカーン博士は74年9月に大統領に手紙を送り、濃縮ウラン(広島)型原爆の開発を呼びかけた。当時、遠心分離機の完成品輸出は禁止されていたが、部品取引は制限がない「法律の不備」があった。輸出入管理当局の疑念を招かないよう「バター製造工場向け」などと用途を偽装したり、検査の緩い国を経由したりしてウラン濃縮用の部品を国内に運び込んだ。
中国も原爆の設計図などを供与し、パキスタンは80年代半ばごろに核兵器取得に成功、98年5月には世界で7番目の核実験実施国になった。
カーン博士は、母国で技術を確立した後は、ウレンコ社に納入する欧州企業とも連携する形で…
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