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沖縄、台湾をつむぐ

琉球王に仕えた名家・川平家。琉球処分から日本統治下の台湾、戦後の沖縄へ。激動の時代をたどり、沖縄と台湾を見つめます。

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沖縄、台湾をつむぐ

沖縄出身者は「琉僑」と区別され、日本人引き揚げ後も台湾に

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チャリティー公演会が開かれた中山堂=台北市で、鈴木玲子撮影
チャリティー公演会が開かれた中山堂=台北市で、鈴木玲子撮影

 1946年2月、台湾から一般の日本人の引き揚げが始まったものの、そこに沖縄出身者は含まれなかった。沖縄は米軍に占領されて日本の施政権が及ばず、沖縄出身者の沖縄への帰還は許されていなかったからだ。

 台湾を接収した中華民国は、台湾にいる日本人を中国の華僑になぞらえて「日僑(にっきょう)」と呼ぶ一方、沖縄出身者をこれとは区別して「琉僑(りゅうきょう)」と呼んだ。川平(かびら)家は沖縄出身。四男の朝清(ちょうせい)さん(94)は「沖縄に行くのがいつになるのか、全く分かりませんでした」と話す。

 台湾にいた沖縄出身者は約3万人。就職や学業のために移民した人、戦時中に疎開した人、米軍侵攻を前に南洋群島から引き揚げて台湾にたどり着いた人、軍人・軍属とさまざまだった。

 最も困窮したのが疎開者たちだ。1万人余の大半が高齢者や女性、子どもで、特に台湾に頼れる親戚もいない「無縁故疎開者」は、政府からの1人1日50銭という生活援護費も途絶えてしまい、苦境にあった。「餓死者まで出て悲惨な状況でした」と朝清さんは語る。

 台湾総督府情報課で働いていた朝清さんの長兄・朝申(ちょうしん)さんは、中南部で戦災状況や疎開者たちの生活状況を調べ、「高雄市や屏東(へいとう)市も相当な爆撃(中略)を受けていて、至る所に沖縄県から来た疎開民がいた。(中略)爆弾は降らなくなったがマラリヤと生活に苦しんでいる同胞が見捨てられていることに気がついた」と記した。その窮状を報告しても、総督府も中華民国側も反応は鈍く「沖縄の疎開民は宙ぶらりんにされてしまった」。

 疎開者救援や引き揚げに向け中華民国や米軍側と連絡を取るため、沖縄出身者たちは「台湾沖縄同郷会連合会」を結成した。会長は元総督府水産試験場長の与儀喜宣(よぎ・きせん)、副会長は弁護士で台南市議を務めた安里積千代(あさと・つみちよ)、医師の南風原朝保(はえばる・ちょうほ)らが務めた。実務は医師の当山堅一、堅次の兄弟、川平家の朝申、朝甫(ちょうほ)の兄弟と山城正樹、宮城寛雄らが担った。事務局は台北にある南風原副会長の南風原医院に置かれた。

「琉僑」と区別し在留許可

 同会は、日本人の送還事務を担う中華民国の組織「日僑管理委員会」に対し、沖縄出身者が沖縄に引き揚げるまでの間、台湾での在留許可を求めた。周夢麟(しゅう・むりん)委員長は「沖縄県人に特別養護または残留を許可すると他の府県の人が沖縄県人だといつわってまぎれこんで来ると還送業務に混乱をおこすおそれがある」と懸念していたと、朝申さんは記す。周氏は、こうした事態が起こるのを防げるなら「沖縄県民を琉僑として扱い、沖縄への入域が米軍から許可されるまで、台湾在留をみとめる」と語ったという。

 同会は沖縄出身者の名簿作成を始めていた。救援活動などを進めるのに実態把握は不可欠だった。45年10月31日付の台湾紙「台湾新生報」に「在台沖縄県人に告ぐ」と広告を掲載し、沖縄出身者たちに氏名や連絡先などの登録を呼びかけた。

 46年2月25、26の両日には、救援募金活動のため台北の中山堂で、チャリティー公演会「琉球芸能の夕」を開催した。琉球舞踊やコーラス、武道などが披露された。18歳の朝清さんは司会進行のアナウンスを担当した。

 堅一さんの回想によると、コーラスは「四十余人の豪華版」。指揮は朝甫さんが務め、メンバーには朝清さんや堅一さん、その妹の信子さん、由喜子さんらがいた。「信子の提案で、女子は敗戦の喪の意味も含めて全員が黒の喪服で統一した」。幕が上がると、喪服姿を見た観客から「アー」と驚きの声が上がった。

 朝清さんは「接収された台湾で、喪服姿で犠牲者を悼んでも大丈夫だろうかと懸念する声もありましたが、沖縄戦を含め多くの沖縄県民が亡くなったことに、皆が弔意を示したかったのです」と語る。公演会は大盛況だった。

南洋群島からの引き揚げ者も

 太平洋戦争末期の台湾には、南洋群島で暮らしていた沖縄出身者たちもいた。米軍の侵攻を前に、政府は…

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