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東京・銀座の待ち合わせ場所として知られる数寄屋橋交差点。その南側の角にある約700平方メートルが9月末までの約3年間、“公園”として利用されていた。仕掛けたのはソニーグループだが、同社の派手な広告は見当たらない。日本一地価が高い銀座の土地をぜいたくに使った理由を探ると、創業者の一人でソニーブランドを確立した盛田昭夫氏の遺志が息づいていた。
かつて建っていた銀座の顔
その場所には、かつてソニービルが建っていた。1966年にオープンしたモダニズム建築の代表例で、地上8階・地下4階建て。ソニー製品のショールームなどが入り、銀座の顔として親しまれていた。2017年に営業を終えて解体された後は更地となり、18年8月から21年9月末までの間、無料で誰でも利用できる広場「銀座ソニーパーク」となった。
9月下旬に訪れると、植樹に囲まれた敷地はウッドデッキが組まれ、木製のベンチにはくつろぐ人の姿もあった。階段を下りると地下にも空間が広がり、イベントスペースやカフェ、バーは多くの人でにぎわっていた。敷地内には派手なソニーの広告はなく、「Ginza Sony Park」のロゴがさりげなく掲示してある程度だった。
経済合理性に従うならば、地価が高い銀座でビルを解体すれば、直ちに新しいビルを建設して収益性を高めようとするはずだ。そうしなかった理由を探るには、時計の針を13年まで戻す必要がある。
社長肝いりのプロジェクト
ソニービルはオープンから半世紀が経過していた。ソニー(21年4月からソニーグループ)の事業は、家電から音楽や映画のような形のないものに軸足を移し、ショールームの役割は実態に即さなくなっていた。そこで平井一夫社長(当時)は、…
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