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都市対抗野球2021

社会人野球日本一を決める第92回都市対抗野球大会(11月28日~12月9日)に関する特集サイトです。

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野茂は新人賞、パンチ佐藤はサイクル安打…都市対抗野球の歴史

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第86回大会決勝で大阪市・大阪ガスを破り、4回目の優勝を果たして喜ぶ大阪市・日本生命の選手たち=東京ドームで2015年7月29日、山崎一輝撮影
第86回大会決勝で大阪市・大阪ガスを破り、4回目の優勝を果たして喜ぶ大阪市・日本生命の選手たち=東京ドームで2015年7月29日、山崎一輝撮影

 第92回都市対抗野球大会が、11月28日に東京ドームで開幕する。優勝チームに贈られる「黒獅子旗」を目指し、社会人野球最高峰の舞台として熱い戦いが繰り広げられてきた。昭和、平成、令和と三つの時代を駆け抜けてきた大会の歴史を振り返る。

日本勢初優勝は第4回の東京倶楽部

都市対抗の初代王座に就いた大連市・満州倶楽部=1927年8月9日
都市対抗の初代王座に就いた大連市・満州倶楽部=1927年8月9日

 大会が産声を上げたのは1927(昭和2)年。まだプロ野球もない時代で、東京六大学や中等学校野球(現在の高校野球)で活躍した選手のプレーを再び見たいという声が背景にあった。

 開催に尽力した一人が、東京日日新聞運動部記者だった橋戸頑鉄(本名・信)。早稲田大野球部時代の米国遠征の際に知った大リーグのフランチャイズ制に着目し、都市の代表同士が争う大会形式を発案した。橋戸は朝鮮半島や中国大陸にも足を延ばし、働きかけに応じたクラブや実業団12チームが、東京・神宮球場に集結。初代王座には、後のパ・リーグ会長となる明治大出身の中沢不二雄監督率いる中国の大連市・満州倶楽部が就いた。第2回大会は大連実業団、3回も満州倶楽部と大連市勢の優勝が続き、第4回大会で日本勢初の栄冠をつかんだ東京市・東京倶楽部が第5回大会も連覇。第6回大会で神戸市・全神戸が関西勢、第10回大会では門司市・門司鉄道局が九州勢初の頂点に立った。

 大会創設に合わせて優勝旗の「黒獅子旗」をデザインしたのは、画壇の巨匠だった小杉放庵。メソポタミア(中東)の古代都市バビロンのレリーフをモチーフにしたとされ、獲物に飛びかかろうとする獅子の姿は強さと勇壮さを象徴している。老朽化などにより第45回大会(74年)と第70回大会(99年)で新調され、現在は3代目が使われている。

 38年の第12回から戦いの舞台が後楽園球場に移ったが、戦火が強まり41年の第15回大会は出場17チームが決まった直後に中止が決定。42年は開催されたが、43~45年は中断を余儀なくされた。

プロ野球隆盛を受けて補強制度が誕生

第68回大会決勝で好投し、大阪市・日本生命を3回目の優勝に導いた杉浦正則。自身2回目の橋戸賞にも輝いた=東京ドームで1997年7月28日
第68回大会決勝で好投し、大阪市・日本生命を3回目の優勝に導いた杉浦正則。自身2回目の橋戸賞にも輝いた=東京ドームで1997年7月28日

 終戦翌年の46年の第17回大会で復活し、岐阜市・大日本土木が優勝。再び大会熱が高まる中、50年に大会の特色となる補強選手制度が設けられた。当時はプロ野球が2リーグに分裂してチーム数が増え、多くの社会人選手がプロ入り。レベルの低下を懸念した都市対抗の主催者側には、同じ地区の予選敗退チームから選手を借りることで強化を図る狙いがあった。この年の第21回大会は大阪市・全鐘紡が初優勝。第22、23回大会も制した全鐘紡の3連覇は、現在に至るまで大会記録だ。新たな制度を象徴するかのように、橋戸賞(最優秀選手賞)に輝いたのは3年とも日本生命からの補強選手で、22、23回大会は内野手の松井実。2年連続受賞は、横浜市・JX―ENEOSの第83、84回大会の連覇に貢献した左腕・大城基志まで続く者のいない快挙だった。連続ではないが、オリンピックに3大会連続で出場し「ミスターアマ野球」と呼ばれた日本生命のエース杉浦正則も第63回大会(92年)と68回大会(97年)で受賞。この3人以外に、複数回の橋戸賞に輝いた選手はいない。

金属バット元年は三菱重工広島が制覇

 節目の第50回大会を広島市・三菱重工広島が初制覇した79年は、試合のありようが大きく変わった年でもある。アマチュアの国際大会の当時の潮流に合わせて金属製バットが採用され、本塁打数は前年の23本から62本に急増。一発が流れを左右する展開が多くなった。国際大会にプロ選手が参加して木製バットが使われるようになったことや打撃戦で試合が長引く懸念から、再び木製に戻ったのが2002年。その間には、第67回大会(96年)1回戦の1試合30得点(広島市・三菱重工広島18-12札幌市・NTT北海道)▽第68回大会(97年)の1大会129本塁打と1試合11本塁打(札幌市・NTT北海道6本、倉敷市・川崎製鉄水島5本)――などの最多記録が生まれた。

第59回大会で力投する堺市・新日鉄堺の野茂英雄=東京ドームで1988年7月30日
第59回大会で力投する堺市・新日鉄堺の野茂英雄=東京ドームで1988年7月30日

 現在と同じ東京ドーム開催になったのは、88年の第59回大会。日本初の屋内球場の物珍しさに加え、夏でも涼しく観戦できるようになったこともあり、歴代最多の76万3000人が来場した。この大会で注目を集めたのは、野茂英雄(堺市・新日鉄堺)。のちに日米の野球界を席巻する独特のトルネード投法で、富士市・大昭和製紙との2回戦は延長17回を投げ抜き14奪三振、1失点。準々決勝で敗れたものの若獅子賞(新人賞)を獲得した。

優勝最多11回は横浜市・ENEOS

 優勝回数をチーム別で見ると、トップは横浜市・ENEOSの11回。日本石油時代の第27回大会(56年)で初優勝して以降、新日本石油ENEOSなどと社名を変えながら積み上げた100勝も、歴代最多だ。同じ神奈川勢の川崎市・東芝が7回で続き、大阪市・日本生命が東京倶楽部、全鐘紡とともに4回で並ぶ。日本生命は歴代最多61回出場の「西の名門」で、大阪ガスとの大阪市対決となった決勝を延長十四回の末に破った第86回大会(15年)の記憶も新しい。この一戦は4時間43分に及び、タイブレーク制度の運用を変更する契機にもなった。それまでは準々決勝までしか適用されなかったが、準決勝以降も5時間を超えた場合は次のイニングからタイブレークに入ることになった。ちなみに、過去に最も長かった試合時間は5時間27分。第33回大会(62年)の1回戦で、東京都・ニッポンビールが延長二十二回の末、1―0で大阪市・電電近畿にサヨナラ勝ちした。

第83回大会の1回戦のにかほ市・TDK戦で、狭山市・ホンダの西郷泰之が3ランを放ち、個人通算本塁打の大会史上最多記録の14本に並ぶ=東京ドームで2012年7月16日、久保玲撮影
第83回大会の1回戦のにかほ市・TDK戦で、狭山市・ホンダの西郷泰之が3ランを放ち、個人通算本塁打の大会史上最多記録の14本に並ぶ=東京ドームで2012年7月16日、久保玲撮影

第34回大会から応援団も表彰

 個人記録に目を移せば、個人通算本塁打は杉山孝一(東海市・新日鉄名古屋)と西郷泰之(川崎市・三菱ふそう川崎、狭山市・ホンダ)の14本。サイクルヒットは、第49回大会(78年)の北村照文(名古屋市・三菱重工名古屋)、プロ入り後に「パンチ佐藤」の愛称で親しまれた第60回大会(89年)の佐藤和弘(東京都・熊谷組)、第68回大会(97年)の酒井司(札幌市・NTT北海道、ヴィガしらおいから補強)、第72回大会(01年)の井上大(門真市・松下電器)の4人が成し遂げている。

 投手部門では第28回大会(57年)で村上峻介(二瀬町・日鉄二瀬)が初の完全試合を達成。2人目は森内寿春(仙台市・JR東日本東北)で、東日本大震災の影響により会場が初めて東京を離れて京セラドーム大阪で開催された11年の第82回大会で快挙を遂げた。

 スタンドで繰り広げられる地域色あふれる応援合戦も都市対抗ならでは。63年の第34回大会から表彰も行われ、グラウンドの選手たちを後押ししている。【野村和史】

【都市対抗野球2021】

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