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戦後の前衛芸術育んだ大阪の「美研」 迫られる転換、その理由は

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大阪市立美術館の半地下にある美術研究所でデッサンに励む研究生たち=大阪市天王寺区で2021年11月
大阪市立美術館の半地下にある美術研究所でデッサンに励む研究生たち=大阪市天王寺区で2021年11月

 戦後の混乱期にあった1946年、大阪市立美術館の専門教育機関として誕生した美術研究所(美研)。公立美術館が研究所として実技教育に取り組む例は他になく、前衛美術集団「具体美術協会」(具体)の白髪一雄をはじめ世界的なアーティストを多く輩出してきた。伝統ある学びの場はしかし、来秋以降の館の大規模改修に伴い、活動場所やカリキュラムの見直しなど転換期を迎えている。美研が果たした歴史的な役割と現状を探った。

 大阪市の天王寺公園内にたたずむ美術館の半地下。もともと市内の小学校校舎に開設された美研は48年、連合国軍総司令部(GHQ)による館の接収解除を受けてこの場所へ移った。当時は日本画、洋画、彫塑の3部門。講師陣は洋画家の須田国太郎や小磯良平、後に具体を率いる吉原治良(じろう)、日本画家の北野恒富、彫刻家の保田龍門らそうそうたる顔ぶれだった。そして白髪や田中敦子といった具体会員、宇佐美圭司ら戦後日本を代表する画家たちが巣立った。

 「抽象旋風の時代で、研究所には熱気があふれていた。足がすくむような場所でしたよ」。54年に研究所の門をくぐった洋画家の辻司さん(87)は当時をこう振り返る。文化勲章受章者の洋画家、絹谷幸二さん(78)も美研で学んだ一人。芸大を志し、高校2年の時、奈良市の自宅から通い始めた。「物おじしないで描くことに真剣に取り組んだ大切な時期だった。美研は私の基礎の基礎を作ってくれた場所」と懐かしむ。

 戦前、美術が学べる関西の公立校としては京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大)があった。ただし日本画科と図案科のみ。抑圧の時代から一転、戦後に自由な自己表現の場を求める若者が増える中、「美研は安く、特に洋画を勉強する場として機能した」。戦後美術を研究する平井章一・関西大教授は、美研50年の記念誌をめくりながらそう語る。「具体に限らず戦後の関西の前衛美術だけを見ても、50~60年代の重要なグループで活躍した人がここで研さんを積んだ」。…

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