真珠湾攻撃で「捕虜第1号」 恥辱、自棄の末にたどり着いたのは
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太平洋戦争の発端となった日本軍による米ハワイ・真珠湾攻撃から、12月8日で80年。関係者を訪ねた連載「あの日、真珠湾で」の第1回は、小型の潜水艦のような形をした特殊潜航艇で出撃し、「捕虜第1号」となった男性とその家族の戦後をたどった。【椋田佳代/社会部】
80年前の真珠湾攻撃に参加し、米軍の「日本人捕虜第1号」となった元海軍士官がいた。酒巻和男さん(1999年に81歳で死去)。「甲標的」と呼ばれた潜航艇でともに出撃し戦死した他の9人は「軍神」としてたたえられた一方、1人だけ生き残った捕虜の存在は当時、秘された。和男さんは戦後、2冊の手記を出版したものの積極的には語らなかった。遺族も言いつけを守り、取材はほとんど拒んできた。しかし今年から応じるようにしたという。なぜなのだろうか。
「(父の)戦争体験には全く興味がなかったんですよ」。11月上旬、愛知県豊田市の自宅で長男の潔(きよし)さん(72)が穏やかな口調で語り始めた。
和男さんの手記や潔さんによると、和男さんは1918年、現在の徳島県阿波市で8人きょうだいの次男として生まれた。教師を志したが、戦争の時代になり海軍兵学校へ。そして41年12月、ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦艇を魚雷で攻撃するために湾内へ向かった。ところが、和男さんが乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、攻撃を受けて座礁する。浜辺に打ち上げられ、米軍に捕まった。
当時、そのことが家族にどう伝えられたかを、15歳下の弟、松原伸夫さん(88)=徳島市=が覚えていた。子どもだった松原さんが道で遊んでいると、海軍将校が自宅を訪ねてきた。…
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