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1941年12月8日、大日本帝国海軍の機動部隊が米ハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。日本側は、攻撃直前に「最後通告」の文書を米側に渡すつもりだったが、実際は開始後となった。国際法に反する行動であり、今日に至るまで「だまし討ち」と批判されている。在ワシントン大使館の歴史的失態ということになっているが、「そもそも日本は国際法を順守するつもりがなかった」との指摘がある。真相はどうなのか。【栗原俊雄/学芸部】
「常識」打ち破った作戦
当日、海軍は洋上で航空機の発着基地となる航空母艦(空母)6隻を投入し、350機が米太平洋艦隊に襲いかかった。雷撃と爆撃で戦艦4隻を撃沈、4隻を損傷させるなど壊滅的な被害を与えた。米側の死傷者は軍民あわせて3500人に及んだ。当時、世界的に海軍の主力は、巨砲を搭載し分厚い装甲を持つ戦艦であった。航空機は比較的新しい兵器で、その攻撃では戦艦を沈められないと考えられていた。この「常識」を、連合艦隊司令長官、山本五十六が打破した。
よく知られているように、真珠湾攻撃は日本が米側に最後通告をする前に行われた。もともと、最後通告するかどうかは政府内でもめていた。海軍側は不要とし、東郷茂徳外相は必要と主張していた。
結局、7日午後4時(ワシントン時間午前2時)に日本からワシントンの日本大使館に発信、8日午前3時(同7日午後1時、ハワイ同午前7時半)にハル米国務長官に最後通告(交渉打ち切りの覚書)を渡すことになった。真珠湾攻撃開始予定の30分前であった。
だが、…
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