「白鳥の湖」を映すテレビ 「何かが起きた!」と感じた91年夏
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ソ連崩壊から30年の節目に、歴代の毎日新聞モスクワ特派員がその前後に起きた出来事を紹介する。連載(全4回予定)の第1回は、石郷岡建元特派員が1991年8月に起きた「クーデター未遂事件」を中心にして「国家の解体」を振り返る。13日掲載予定の第2回では、政治的な競争と混乱が混在した90年代のロシアを取り上げる。
「悲劇的な大事件」暗示?
30年前の91年8月19日朝、私は、ニュースを見るためにテレビをつけた。画面に映ったのは、ニュースではなく、チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」を踊るバレリーナの姿だった。私は、すぐさま「何かが起きた!」と理解した。ソ連時代、何か「悲劇的な大事件」が起きると、「白鳥の湖」の音楽が流れるのが恒例だった。今から考えると、テレビ局のせめてもの抵抗と警告だったのかもしれない。
支局に駆けつけると、「非常事態宣言」が布告され、ヤナーエフ副大統領がゴルバチョフ大統領に代わって、執務を行うと説明されていた。集会、デモ、ストは禁止で、従わない者は断固制圧されるなどの決定が次々と発表された。明らかに、ソ連国家上層部で権力交代が起きたという状況だった。そして、戦車や装甲車などの軍部隊が、続々とモスクワの中心部へと入ってきた。
数時間後、国家非常事態委員会メンバーの記者会見が行われた。副大統領、首相、国防相、内相、そして、治安警察機関のKGB(国家保安委員会)議長など、ゴルバチョフ氏の側近たちが、ずらりと並んでいた。
「ゴルバチョフ氏は、クリミアの保養地で静養中です」とだけ説明された。重苦しい空気が会場を覆った。何を質問しても意味がないという雰囲気だった。
クーデターを覆した記者の質問
そのなかで、若い女性記者が手を挙げた。「あなた方は、本日、国家謀反(クーデター)を行ったことを理解しているのか?」と大胆な質問をした。非常事態委関係者の間に動揺が走った。クーデターは崩壊へと向かった。
「独立新聞」のタチヤーナ・マルキナ記者(当時24歳)で、この発言で英雄となった。30年後の現在も記者を務めており、「私は(あの時)この人たちに未来はない」と確信していたと語っている。
このKGBを中心とする右派軍需・治安勢力のクーデター事件は、ゴルバチョフ政権を土台から崩し、共産党政権を瓦解(がかい)させ、ソビエト社会主義共和国連邦を崩壊させ、社会主義思想を根底から失墜させた。
のちに「ソ連崩壊」という言葉で、総括されることになるが、20世紀の世界を揺るがした歴史的な大事件だった。
この事件以前に、ソ連が崩壊すると予告した人は、ほとんどいなかった。ただ、ソ連国内にいた私は、ソ連経済は行き詰まっており、共産党独裁政権が長く続くとは思えなかった。
ゴルバチョフ氏は、のちに「国民に安いパンを与えるための小麦・ライ麦などの補助金が増大し、国家財政の約3割を占める国防費と並ぶ状態になった。さすがの軍産複合体も経済改革の必要性を認めた。それがペレストロイカ(立て直し)政治の始まりだった」と説明している。ちなみに、当時のソ連は“敵国アメリカ”から莫大(ばくだい)な量の穀物を輸入していた。
首都のホテルでもパン以外の朝食なし
ソ連崩壊が始まる1年前、ウィーン特派員だった私は第28回ソ連共産党大会の取材のため、モスクワ入りしたが、社会全体が荒廃しているのに驚いた。町の中心部のゴーリキー通り(現トベルスカヤ通り)の「インツーリストホテル」に泊まったが、朝食に食堂へ下りていくと、パン以外に食べるものがない。バターもジャムもハムもソーセージも、何もなかった。時折、わずかな数のゆで卵が運ばれ、客同士の奪い合いとなった。暗たんたる思いだった。
しかし、私は、共産党…
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