遊説で雄弁だったエリツィン氏 直後の暗い表情とその後の命運
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ソ連崩壊から30年の節目に、歴代の毎日新聞モスクワ特派員がその前後に起きた出来事を紹介する。連載(全4回予定)の第2回は、大木俊治元特派員が1996年のロシア大統領選を取り上げる。14日掲載予定の第3回では、同じソ連の共和国だったロシアとジョージアが2008年に起こした軍事衝突を振り返る。
共産党候補が挑んできた96年の大統領選
ソ連崩壊後、初めてのロシア大統領選が行われたのは1996年だった。91年6月にソ連を構成するロシア共和国の初代大統領に当選し、「再選」を目指すボリス・エリツィン氏に、95年末の下院選で第1党になったロシア共産党のゲンナジー・ジュガーノフ委員長が挑んだ。
エリツィン大統領の新生ロシアは経済混乱の真っただ中にあり、年明けからジュガーノフ氏の優勢が伝えられていた。共産党政権の復活か、民主体制の維持か。天下分け目の決戦に世界も注目していた。私の記憶では、これほど緊張に満ちた選挙は、その後のロシアではなかった。
5月末、私はウラル地方の中堅都市ペルミでエリツィン氏の地方遊説を取材した。6月16日の第1回投票日まで2週間余り。取り囲んだ市民の質問や声かけに、かんで含めるように丁寧に説明したり、逆に無謀な要求だとしかりとばしたり。巨体のエリツィン氏は威圧感があり、自信たっぷりに見えた。
しかし、熱狂の輪から離れて車へ歩いて戻る姿をふと見ると、暗い表情で下を向き、肩で息をしていた。当時65歳。疲れ切った老人の姿だった。当時のロシア人男性の平均寿命は50歳代後半だったと思う。このとき既にエリツィン氏には、2期目を務めあげる体力は残っていなかったのかもしれない。
第1回投票では、エリツィン氏がトップで得票率35%、ジュガーノフ氏が2位で32%の大接戦となり、7月3日に決選投票が行われることになった。ところがエリツィン氏は、6月末からメディアに出てこなくなった。決選投票は3位の候補の取り込みに成功したエリツィン氏が53%の得票率でジュガーノフ氏を降したが、勝利の喜びの姿を見ることはできなかった。体調を崩して療養所に入院していたことがわかったのは後のことだ。8月9日の就任式。約1カ月半ぶりに公の場に現れたエリツィン氏の動きは鈍く、短い宣誓の言葉を振り絞るのがやっとだった。11月に心臓バイパス手術を受けるなど、その後も入退院を繰り返し、最後は自ら後継指名したウラジーミル・プーチン氏に後を託し、99年末に引退した。
混乱のさなかにも自由があった90年代
私は94年秋から99年4月までモスクワで、エリツィン政権のロシアを取材した。2期目は健康不安を抱え、98年8月には国家財政が破綻して対外債務の返済繰り延べに追い込まれるなど、混乱続きで展望の見えない時代だった。それでも…
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