終戦直後、手探りのリフト建設 野沢温泉 一大スキー場の礎に
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1945年8月の太平洋戦争敗戦から1年半後、進駐軍が志賀高原と札幌市の藻岩山(531メートル)に造らせた日本初のスキーリフトは、客集めに欠かせないことを全国のスキー地に知らせた。長野県内ではまず豊郷(とよさと)村(現野沢温泉村)の野沢温泉スキークラブが建設に動き出したが、どうすればいいのか分からない。全国4番目、県内2番目となる50年12月の運転開始まで苦労の連続だった。【去石信一】
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戦前はスキーを履いて山を巡り歩くツアーが盛んで、斜面を上っては滑り下りる楽しみ方は今ほど行われていない。「野沢温泉スキー誌」によると、敗戦間もなく進駐軍が来て、「滑るのは楽しいが、上るのは労働だ。労働のために来たのではない」と文句を言い、リフト建設を求めた。相手したクラブ会長は「リフトという語が分からなくて困った」という。
地元出身で県スキー連盟会長などを務めた片桐匡氏(1919~2003年)は著書で「当初は建設費がかかる、ぜいたくなどと渋る雰囲気があったが、次第に機運が高まった」と振り返っている。初級から上級のコースとジャンプ台に接続でき、リフトが短くて済む毛無山(1650メートル)ふもとの「日影ゲレンデ」に設置を決めた。
鉱山のロープウエーを応用するのが手っ取り早いと考え、群馬側県境にあった小串(こぐし)硫黄鉱山(嬬恋村)に指導を頼ることにした。電話で技術者の派遣を2度も依頼したが、「留守中に事故が起きればこちらが困る」と断られた。鉱山に押しかけて頭を下げ、渋る所長を説得。日曜日だけ、派遣の承諾を得た。
ワイヤロープは、草津白根山(2160メートル)の石津硫黄鉱山(嬬恋村)から中古を譲り受けることにした。ところが…
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